さて時は1598年、豊臣秀吉は700本の桜を集めて醍醐寺にて花見を行いました。醍醐の花見で御座います。
しかし豊臣秀吉はこの後次第に体調を崩していき・・・。
遂に5月には床に臥せってしまいました。
自分の寿命を察した秀吉は、
徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元、所謂五大老と五奉行(前田玄以や石田三成ら、秀吉の配下の奉行衆)に充てて遺言書を与え、
彼らはこれに血判!
更に徳川家康は秀頼の後見人になるよう頼まれたので御座います。
そして遂に8月18日・・・。
豊臣秀吉はその生涯を終えたので御座います。
この死にもやはり色々囁かれたようで、
噂によれば京都の方広寺(秀吉が刀狩の口実として建てた寺)に運び込まれた善光寺の阿弥陀三尊の祟りだとか・・・。
この秀吉の死をもって朝鮮出兵は打ち切られたので御座いました。
さてこれで時代は大きく動くことになるので御座います。
秀吉は遂に、自分の最大の敵である家康を倒す事が出来ませんでした。
否、この時秀吉は家康に縋らねばならないほど追い込まれていたので御座います。この話はまた後日致します。
そして豊臣政権内には大きな溝が出来てしまいました。
戦場で戦ってきた武断派と、
政治で貢献してきた文治派。
特に文治派の石田三成は特に武断派の憎悪を一身に集めてしまった。
曰く、三成は秀次を追い落とした黒幕である。
曰く、三成は朝鮮出兵の時戦っていた武将の悪口を言っていた。
実際これらの噂がどれほど真実かは定かでは無く、
おそらく彼は秀吉の奉行としての職務を遂行しただけ、らしいのですが・・・。
そしてここで、武将派は政権内での生き残りを賭け、或いは文治派に打ち勝つため、
徳川家康を頼ったので御座います。
こうしていよいよ徳川家康は権力を高め、
遂には文治派筆頭の石田三成と対決するので御座いました。
さて、それはまた次回。
宜しくお願い致します。
話者 大宅世学