日々是学ぶ! -27ページ目

日々是学ぶ!

歴史は糸玉のようなもの、とわたくしめは思っております。
歴史はありとあらゆる出来事が絡まって出来上がる物でどの糸を辿るかで糸玉の色は様々に変化致します。
わたくし大宅世学、未だ未熟者ながら皆様と歴史を観測し語り合いたく存じます。

さて皆様、大分お待たせいたしました。いよいよ戦国時代の語りどころ、関ヶ原の戦いがやってまいりました。

いや、大河ドラマと同じくらいの時に更新出来ていたらよかったのですが・・・。

さて、豊臣秀吉亡き後、政権内には大きな溝が出来てしまいました。

実際に戦場で戦った武断派、そして内政で活躍した文治派、この二派が恩賞やその他内政干渉等で大きく対立。

その対立の結果、秀吉の遺言はその死の10日後には破られてしまう結果になったので御座います。

それが毛利輝元と4奉行(五奉行の浅野長政以外全員)の間の起請文で、秀吉の「徒党を組むな」という遺言が破られたので御座います。

約束事というのは一部が破られればもう全てがご破算になったも同然

この隙を逃さないのが大老徳川家康

島津家領土内の蔵入地を解除したり、勝手に伊達政宗と政略結婚を進めたり、他家の結婚を取り仕切ったりとやりたい放題。

遂には大老前田利家がこれを糾弾し危うく戦争になるところであった。

しかしここではお互いに誓紙を交わして事なきを得ましたが・・・。

この時多くの武断派武将が徳川屋敷に多数集結!

豊臣家の分断と共に家康の存在感を表した出来事でありましょう。

1599年、利家が死んでしまうと武断派の七将(加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長)が石田三成を襲撃

これを調停したのが家康で、三成は佐和山城に蟄居を命じられてしまう。

更に家康は大坂城を自身への暗殺計画を理由にして半ば占拠してしまい・・・。

事ここに居たって石田三成家康討伐を決意!

しかし家康は既に将来の戦を見越していたので御座いました・・・。

さて、いよいよ次回が関ヶ原という事になるかと思います。

それでは皆様、寒いですがお体にお気をつけて・・・。

                          話者   大宅世学