さて皆様、長らくお待たせしました。
今回は豊臣秀次についてのお話で御座います。
そも、豊臣秀次とは・・・。
彼は確か、豊臣秀吉の甥にあたる人物であり、
小牧・長久手の戦いで家康に翻弄されてしまった人物でもありました。
そんな彼は秀吉の嫡男、鶴松の死去によって1591年に関白に就任していたので御座いました。
本来このまま彼が豊臣政権を率いていく予定・・・だったのですが。
なんと1593年、秀吉の妻である淀殿が懐妊!そう、後の秀頼で御座います。
ん?
政権のトップが、
一度引退を決めて、
自分の血族に地位を継承させて、
その途端に自分の子供が産まれる・・・。
このパターンはどこかで・・・。
そう、あの応仁の乱を呼び起こした足利義政の時と一緒!
なんでこう、都合の悪い時に・・・。
嫡男を得た秀吉の喜びはそれは大きなものであったという。
だがこうなると
「秀次に位を譲ったのはちと早計だったかもしれん・・・」
と秀吉が思ったとしても不思議ではないし、
秀吉がそう思っていると秀次が思ったとしても不思議ではない。
しかも秀吉は秀次が湯治に行っている間に前田利家を仲介人として産まれたばかりの秀頼と秀次の娘を結婚させてしまった。
こうする事で三代目関白としての秀頼の位を確定させたかったようで御座いますが、
おそらくこれは秀次の知らぬところで決められており、
そうなれば秀次の秀吉に対する感情が変化したとしてもこれまた不思議では無かった。
しかし表では嫌な顔は一切せず、平和に時が過ぎていくのかと思われていた時・・・。
「関白秀次に謀反の意あり」
1595年のこと。
突如秀次に謀反の意志があるという疑いが持ちあがった。
余りにも唐突な話で、誰もが俄かに信じられない、といった態であったという。
しかしそんな人々を尻目に事態は急速に進み、
秀吉の奉行衆(石田三成等)が秀次に誓紙を提出するよう求め、
秀次はこれに応じたものの・・・。
遂に7月、高野山にて秀次は切腹!
磯かげの、松のあらしや、友ちどり
いきてなくねの すみにしの浦
これが彼の辞世の句だと言われているそうな。
しかし事態はこれで留まらなかった。
秀吉は秀次を切腹させると更に、
秀次の一族郎党皆殺しを決意!
まず若君4名、側室姫君侍女果ては乳母まで39人を悉く打ち首にし
ここに秀次の眷属は絶えたのであると言われておるそうな・・・。
この処刑を見た民衆は余りの酷さに、
奉行に対して罵詈雑言を浴びせたとか。
巷ではよく、朝鮮出兵が秀吉の狂気の仕業と言われておりますが、
私が思うに、彼の狂気はこの秀次事件にみられると思います。
朝鮮出兵はむしろかなり理性的、合理的な判断によってなされており、
これは決して間違ったことではないでしょう。
しかしこの秀次事件は、
かつての、天下人にまで上り詰めた男の姿は微塵も感じられない話であると思います。
ですが、この時の秀吉の気持ちもまた、良く解る気も致します。
彼はこの時、愛に狂ったので御座いましょう。
愛する子の為ならば、親は鬼にも修羅にもなりましょう。
彼は、最愛の息子の為に塵一つの危険も残したくなかった・・・。
その思いは、確かに理解出来るような気がします。
また、豊臣秀次は一説によれば秀吉の命令では無く、
自分の意志で切腹した!と言う説もあり、
これが真実だとすれば秀吉がそこに危険性(具体的に言えば秀頼に対する恨みを遺して死んだという可能性)を感じたとしても不思議ではないのではないでしょうか。
ですが、芥川龍之介の小説にも有るように、
死を遠ざけようとするあまり、かえって死を招き入れてしまうこともあります。
この秀次事件によって、
豊臣政権は大打撃を被りました。
まず第一に、これで秀頼を後見出来る血族が豊臣秀吉のみになってしまった。
つまり秀吉が死ねば秀頼の地位は不安定になってしまう。
次にこの事件で朝廷内の協力者を失ってしまった事。
菊亭春季と云う貴族がおります。
彼は天下人になりたい秀吉に接近し、
彼を関白へと導いた、謂わば秀吉の大親友でありました。
春季は豊臣政権と密接な関係を持ち、
娘を秀次に嫁がせていたのですが・・・。
なんとこの娘は秀次事件の際処刑されてしまい、
春季も連座という事で越後に流罪にされてしまったので御座います。
つまり秀吉は長年の交誼に仇で酬いたという事になります。
・・・実はこれが後々、豊臣政権を破滅に導いていくので御座います。
そして最後に、この事件が政敵に有利に働いてしまった。
そう、この事件によって徳川家康は豊臣派の武士の信望を得たので御座います。
何故ならば!
秀次は秀吉公認の後継者で御座いました。
つまり秀吉に臣従している者、いや寧ろ彼に従っている者ほど、
秀次と親しかったので御座います。
ところが秀次が切腹すると秀吉の目は彼等へと向かい、
次々と連座として罰を与えていったので御座います。
困った大名達はこぞって家康を頼りました。
家康は彼らの頼みを聞き入れ、
秀吉と談判!彼らを救ったので御座います。
そう、後に家康は豊臣政権の実質的な支配者となりますが、
これは家康が強引に事を進めた結果というワケでは無く、
「徳川殿こそ、我らの頭領たるべし!」
と言う声が大きかったのが理由であり、
この事件によって豊臣家は滅亡へと進みだしたので御座います。
さて、次回は秀吉の死と、家康の躍動について・・・。
何卒、よろしくお願いいたします。
話者 大宅世学