皆様、ずいぶん間が開いてしまいました。ようやく続きを書きたいと思います。
方広寺鐘銘事件にて豊臣方に翻意を感じた家康は、これに厳しい対応を致しました。
これには諸説理由があるようですが、もしかすると豊臣方がキリシタンの浪人を雇っている、という情報が家康の元に届いたのがキッカケかもしれませぬ。
ええっ!キリシタン!?何故そんな連中を・・・と思いますが、
当時既に江戸幕府が始まり全ての大名がこの支配下に置かれると、
もう誰も豊臣に味方しようとは思わなくなりました。
故に彼らは反徳川の連中をかき集めていたのですが・・・。
その筆頭がキリシタンだったのだとか。
これは決して不思議な事ではない、とのことですが。
にしても悲しい話。
キリシタンは豊臣秀吉が、日本侵略の尖兵と断じて追放した連中。
その連中の力に頼らないといけないとはまさに貧すれば・・・というやつ。
となれば家康は怒る。
これに慌てたのが豊臣方の外交係、片桐且元で御座いました。
彼は必死に家康に弁解しようとしましたが、
なんと家康に会えない。
この家康の姿勢に、
徳川は豊臣を滅ぼそうとしている!
と察知。
そこで豊臣方に、
①豊臣秀頼の大坂城退去
②秀頼の母淀の江戸への出頭
③大坂城に居る全浪人の追放
の3条件を提示し、
このどれか一つで徳川方と和睦しよう、としたので御座います。
ちなみに確か、この条件は家康ではなく
片桐且元が独断で考えたものだとか。
その為か、どれもそこまで受け入れがたいものではない。
しかし同時にこの3条件は、要するに豊臣の徳川への臣従を意味しておりました。
それゆえ豊臣方の強硬派は激怒し、
且元は徳川と内応している!
として且元を暗殺しようとしたそうな。
これに驚いた且元は大坂城を退去し、
攻撃に備え守りを固めたので御座います。
しかしこの且元攻撃こそが家康の狙い。
実は片桐且元、豊臣派に属する武将ではありますが、
なんと徳川からも恩賞を受けており、
これにより且元は半分徳川、半分豊臣という微妙な立場だったのでした。
故に、且元への攻撃は徳川への攻撃とされ、
こうして最後の戦い、大坂の役が始まったので御座います。
次はその大坂の役について、よろしくおねがいいたします。
話者 大宅世学