日々是学ぶ! -18ページ目

日々是学ぶ!

歴史は糸玉のようなもの、とわたくしめは思っております。
歴史はありとあらゆる出来事が絡まって出来上がる物でどの糸を辿るかで糸玉の色は様々に変化致します。
わたくし大宅世学、未だ未熟者ながら皆様と歴史を観測し語り合いたく存じます。

さて時は1614年、遂に豊臣家は徳川幕府に宣戦布告し、ここに大坂冬の陣が始まりました。

はじまりましたが、しかし勝ち目は無かったのであります。

この戦いに際して豊臣家は諸大名に「太閤様の恩義に報いよ!」といった手紙を送ったそうですが、

そのすべてに拒絶されてしまったので御座います。

その為豊臣家は浪人をかき集めて戦力にしたのでありました。

つまりはこの大坂の役とは豊臣家対徳川家の戦いではなく、

豊臣家対日本と言ってもいいような、一種無謀な戦いになってしまったので御座います。

しかし豊臣家がかき集めた浪人衆は戦場を生き抜いた猛者が多く

対する徳川家は世代交代が起こっており、経験豊富とは言い難い二代目の武将が多かったのもあり、

豊臣家の戦術いかんでは戦局がどうなるかは判らなかったと言われておるそうな。

だが結局勝敗を分けたのはやはりトップの差であったのでしょうか。

徳川家康は歴戦の猛者。絶体絶命の危機を幾度も潜り抜けたその経験がありました。

対して豊臣秀頼は戦場に出た経験があるかと言われれば微妙であり、また浪人衆を束ねるカリスマ性も無かったのでありましょう。

家康は配下の武将の経験値不足を承知しており、その対策として野戦を行わずに南蛮渡来の大筒を朝も夜も無くぶっ放し続けると言う攻城戦を展開したそうな。

そして和睦を結ぶと大坂城の堀を全て埋めてしまい、

翌年1615年大坂夏の陣では数に物を言わせて豊臣方を蹂躙し遂に滅亡に追い込んだそうな。

こうして、ようやく徳川家康の本願は叶いました。

この時より徳川幕府が日本の支配者として君臨する事になるのでありました。

さて次回はこの続きから・・・。

宜しくお願い致します。

さて余談ですが、この大坂の役の時、徳川家康「まるで40代の時の様な」姿に見えたという記録があるそうです。

この戦いへの意気込みがわかるお話かと思います。

                               話者    大宅世学