日々是学ぶ! -17ページ目

日々是学ぶ!

歴史は糸玉のようなもの、とわたくしめは思っております。
歴史はありとあらゆる出来事が絡まって出来上がる物でどの糸を辿るかで糸玉の色は様々に変化致します。
わたくし大宅世学、未だ未熟者ながら皆様と歴史を観測し語り合いたく存じます。

皆様、大分間が空いてしまい申し訳ございません。

ここは番外編と致しまして、何故豊臣秀頼関白になれなかったのか?を考えてみたいと思います。

そもそも何故秀頼の父、豊臣秀吉は関白となったのか?

これは諸説あるようですが、一説には現征夷大将軍の足利義昭が秀吉の誘いを頑強に拒否し、

その為に関白の方を取ったと言われておるそうな。

しかしこの事が、豊臣政権の大きな障害となっていくので御座います。

【秀頼の関白就任を阻む者達】

1598年豊臣秀吉は亡くなりました。そして彼は五大老、特に徳川家康秀頼の後見を頼んだので御座います。

ですが何故?

家康は立場・格共に秀吉を凌駕し得る存在でありました。そんな彼に後見を頼むのは危険すぎるのではないか。

しかしここには秀吉の窮地が現れているのです。

秀吉の窮地、すなわちここで死ねば秀頼は関白になれない、というものでありました。

何故か。

実は関白は朝廷の中でもかなり重要なポストであり、それに就くためには様々な条件を満たさねばならなかったのです。

例えば関白には大臣を経験した者でなければなれない、だとか。

しかしそんなことより重要なのは、関白になれるのは特定の家柄の人間のみという制約で御座いましょう。

関白になれるのは藤原道長の直系である、

近衛・一条・二条・九条・鷹司の5家のみでありました。これを五摂家と呼びます。

あれ?ならば何故秀吉は関白になれたのか?

それは秀吉がこの五摂家の権力闘争に介入して、近衛家の養子として関白宣旨を受けたからで御座います。

つまり豊臣秀吉ではなく近衛秀吉として関白になったのであって、

豊臣家の人間は関白になれない、という事になります。

しかし秀吉はここで策をめぐらし、

近衛秀吉になる前に豊臣の姓を賜った事にするべく書類を改ざん

これにより豊臣家は五摂家と同じ扱いになったとして甥の秀次を関白にしたので御座います。

こうなれば収まらないのが五摂家

五摂家しか関白になれないと言うのは200年ほどの伝統があり、

これを踏みにじられたのではたまったものではありません。

しかしこれに抗議した者は島流しにされてしまうため、

五摂家のメンバーは皆機を伺っていたので御座います。

・・・そしてその時が来たのが、

豊臣秀吉の死であったのです。

貴族というのは年がら年中権力闘争に明け暮れているので、秀吉が死ねば秀頼を潰すことなど容易いこと。

そこで秀吉が頼ったのが、徳川家康だったので御座います。

まず秀吉は秀頼の為に甥の秀次を切腹に追い込み更に一族郎党皆殺しにすると、

秀次派の貴族も悉く一掃。

そして家康を内大臣に据えたので御座います。

これはなぜかと言うと、

大臣、つまり太政大臣、左大臣、右大臣、になるためには内大臣を経験せねばならないという制約を使って五摂家を封じ込める為で御座います。

これにより家康が内大臣である限り、五摂家のメンバーは大臣に就けないことになり、

秀頼の関白就任までの時間稼ぎが出来る、という事なので御座います。

だからこそ、秀吉は家康を枕元に呼び寄せて後見を頼んだので御座います。

しかしこの手の権力闘争にはやっぱり五摂家が有利だったようで、

次第に情勢は秀吉の望んだものとは違ってくるので御座います