さて今回は生まれながらの将軍である家光についてのお話で御座います。
三代目将軍・徳川家光は父・秀忠と違ってかなりの武闘派だったようで御座います。
象徴的なお話が、諸大名を集めて言った「我は生まれながらの将軍である。」という演説でありましょうか。
祖父も父もお前達に恩があるから優しかったかもしれんが俺は違う。不満があるなら国に帰って戦争の支度を始まるがいい、と言ったお話に分かる通り自分に、そして幕府に強い誇りと自信を持っておられた様で御座います。
されどその始まりは余り良いものではなかったようですな。
幼名を竹千代といい、半ば彼が将軍になるのは決まっていたのですが、
弟の国松を両親が溺愛したのだとか。
そんな彼の数少ない味方が祖父・家康と乳母・春日局だったと言われています。
春日局は明智光秀の重臣・斉藤利三の娘であったとされ関ヶ原の戦いの勝利の影に彼女の姿があったとも謂われているとか。
春日局は竹千代と国松の争いを防ぐべく単身家康に謁見。
それを受けて家康は自ら竹千代を後継者として指名したと言われております。
更に家光は若いころ病弱だったらしいですが、
家康の調合した薬を飲んで快復した経験があるらしく、
彼は家康に対して深い尊敬の念を抱いていたそうで御座います。
であればこそ、
家康の為にかの日光東照宮を造営したのでありましょう。
そんな家光の功績といえば1625年、武家諸法度改定、つまり参勤交代の義務付けがありましょう。
この参勤交代、なんで造られたのかイマイチ分かってないと言われているそなのですが・・・。
参勤交代の制度によって江戸時代は大きな転換点を迎えるようになったという事は確かなようです。
家光の時代には様々な事件が起こりました。
一つが1627年の紫衣事件で御座いましょう。
紫衣とは最高位の僧侶に贈られるものであり、実は朝廷の秘めたる収入源でもありました。
しかし幕府はこれを禁中並公家諸法度によって幕府に相談無しに与える事を禁じたので御座います。
そして後水尾天皇が与えた紫衣がこれに違反しているとして騒動に発展したので御座います。
二つ目が島原の乱で御座いましょう。
これは後々また番外編で扱いたいと思います。
三つ目が寛永の大飢饉で御座いましょう。
1642年、日本全国で天災が発生し作物が全滅し発生した大飢饉で御座います。
余りの事態に幕府は様々な手を打ちましたがその中の一つが田畑永代売買禁止令で御座います。
田畑を売ってはならぬという法を定めるほど恐ろしい災害だったので御座いましょう。
話者 大宅世学