福田氏のことを調べているうちに、若かりし頃に読んだ本の記憶が蘇ってきました
その本の名は新田次郎著の「孤高の人」です
モデルとなったのは実在の登山家だった加藤文太郎氏
加藤氏は近代登山の黎明期に、当時では珍しい異端とも言える単独行で多くの積雪期登攀記録を残しました
今とは比べものにならない簡素な装備で雪中ビバークを重ね長距離を登破する、そんな不死身の男でしたが、1月の厳冬期に槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、猛吹雪に閉じ込められ31歳の短い生涯を閉じたのです
福田氏が加藤文太郎のことをどれほど知っていたかは分かりませんが、奇しくも二人は同年生まれでした
福田氏は登山家としては遅い34歳での山岳デビューでしたが、加藤文太郎の遭難に心動かされるものがあったでしょう
そして、福田氏は結婚して子供に恵まれ、やがて次男が逞しい登山家に成長していくのです
父としては内心嬉しくもあったでしょうが、その最愛の子が26歳の時に奥黒部で帰らぬ人となりました
さらに、加藤文太郎が生れた兵庫県美方郡近傍の城崎郡に生まれ、数多くの前人未踏の偉業を成し遂げた植村直己は43歳でマッキンリーに消えてしまいました、今もなお・・・
そんな若くして亡くなった山男たちのイメージが重なっていきます
山で遭難するのは街で交通事故にあうより確率的にははるかに低い
とはいうものの気象条件や登攀条件のハードル高いほど危険度は上がる
それを承知で挑むのが山の魅力に憑りつかれた登山家の心理状態であり
万が一、山で命を落とすことになっても本人に悔いはないのでしょう
だけど、残された者の哀しみは大きい
福田氏は奥黒部で遭難死した次男の追悼句「秋風挽歌」と、それまでの句作活動の業績により1970年第4回蛇笏賞を受賞しています
少し長くなりますが、その時の受賞のことばを「角川文化振興財団」HPより引用します
受賞対象は「秋風挽歌」他とのことである。
もし息子がゐたら「よかつたね」と話しかけ記念に山へ出かけるかと地図をひろげて歓談したことであらう。もし健在だつたらこんなこともなく、人知れず体力の許す限り黙々と山を歩み続けてゐたであらう。
別に手引きをしたわけでもないが、次男だけが山のグループに加わり、いつの間にか体験と体力をつけて山男に生長し、頽齢の身ではついて行けなくなつた。
何度か行を共にしたアルプスの最も楽しかつた山々が、今では最も悲しい憶ひ出につながる。
受賞の喜びが大きければ大きい程悲しみが深い。山を愛する私にとつて、そこで息子を失ふほど悲惨なことはない。
山行は私にとつて体当たりの人生であつた。厳しく美しい季節の摂理の最も純粋な造化と出会ふ詩心昇華の場でもあり、生の証の場でもあつた。
俳句は無常観の詩であるとも言はれる。
知識として理解しても、現実に遭遇すると、人間のいとなみの総てが虚しく、ただ無常迅速を痛感する。生涯の苦悩に直面し、呼んでも谺のない寂寥を自分の為に記しておきたかつた。
岳友達が黒部に花束を流し、ケルンを積んで山の歌を合唱してくれた。人知れず書きとめた文字を認めて、その愁を頒ち励まして下さつた方々にも岳人の心が通ふ。その感謝をどう表現してよいか言葉もない。あの崩壊の現地を踏んで霊に報告したいと思ふ。
秋雲一片
遺されし父
何を為さん
福田蓼汀
以下に本日のおまけみたいになりますが、前回の残りの写真をベタ貼りします
花の名はGoogleレンズに依りましたが間違いがあるかもしれません

ジャコウソウ

ショウキラン

スダヤクシュ

ソバナ

タケシマラン

チングルマの果穂

ツルニンジン

トリカブト

ナナカマド

ハクサンコザクラ

ハクサンチドリ

ハクサンフウロ

フキユキノシタ

ベニバナイチゴ

ミツバオウレン

ミヤマアカバナ

ミヤマコウゾリナ

モミジカラマツ

ヤグルマソウ

ヤナギラン

ヤマハハコ

ヨツバシオガマ

ワタスゲ