8/25(火)後半
大徳寺龍源院の次は曼殊院門跡に向かいました
途中で皆さんのブログに良く出てくる府立植物園の標識が見えたので入口まで行ってみました
中には入りませんでしたが、園内は広そうなのでじっくり見るなら一日がかりでしょうか
白川通を横切り曼殊院へ向かう道は山沿いの住宅街の狭い道でした
幸い対向車には合わなかったので良かったですが、紅葉シーズンに車で行くのは大変でしょう

「門跡」(もんぜき、もんせき)は、皇族・公家ゆかりの寺格が高いといわれる寺院
現在の建物や庭園は江戸時代初期に八条宮家の良尚法親王が整えたとされています
庭の雰囲気は枯山水ぽい宮廷庭園でツツジやモミジの名所みたいですね

柱の方向の奥が蓬莱連山と滝石・橋石・水分石
(遠くて見えませんね)


中央が亀島、右側に鶴島


五葉松を鶴に見立てた鶴島

「フクロウの手水鉢」

2022年に宸殿再建に合わせ、前庭「盲亀浮木の庭(もうきふぼくのにわ)」を整備
天皇皇后両陛下行幸啓記念樹、右に橘、左に豆桜(状態がヤバそうだった)
奥の石組は「百年に一度息継ぎのために海面に頭を出した目の見えない亀」との説明書き
曼殊院からの下り坂も対向車が上って来なかったので無事に広い通りに出ました
次はいよいよ重森三玲庭園美術館ですが、予約の午後2時までは時間があったので
近くの吉田神社参道の広いスペースに車を停めさせてもらって、境内をひと回りしてきました

鳥居の先が吉田神社本殿

境内にあった「さざれ石」
石段を上って本宮に参拝したあと、境内図を見ると他にも多くの摂社末社があるので、さらに上ってみました
中にはお菓子の神様や料理の神様が祀られている社もありました

菓祖神社
5分ほど歩くと「斎場所大元宮」という茅葺き屋根の多角形の社があり、これが元の本宮らしい

ここには諸国の神々が祀られていて、「大元宮にお参りすれば全国の神社をお参りしたのと同じご利益がある」とされています(詳細は下記メモに)
【吉田神社について勉強しました】
吉田神社は、平安時代、藤原山蔭が清和天皇の平安京鎮護と一族の繁栄を祈願し、奈良の春日大社から神々をこの地に勧請して創建したのが始まりとされています。
室町時代には、ここで創始された「吉田神道(唯一神道)」の中心地となりました。
江戸時代に入ると、吉田神道は幕府の信任(相互の利害が合致)を得て「自らを全国の神社・神職の最高権威である」と位置づけ、全国の神社を統括して神職へ免状を発行することで強い影響力を持ちました。
ただし、伊勢神宮など朝廷祭祀の核となる古社に対する武家政権の干渉は政治的に危険だったので除かれています。
その後、明治時代になると政府は「国家神道」体制を整えるため、特定の家系や教派が全国の神社を支配する仕組みを廃止します。神道の中心は伊勢神宮と国家に一元化され、吉田家が保持していた神職の任命権や各種認可権はすべて無くなりました。
太平洋戦争後、日本の神社は新設された宗教法人「神社本庁」のもとに包括されることとなり、現在、吉田神社は一地域の神社としてその歴史を今に伝えています。
時の流れによる栄枯盛衰があり、なかなか興味深い神社の歴史でした
さて、時間になったので重森三玲庭園美術館に向かいます
本日午後の拝観予約は3組6名でした
重森三玲のお孫さんである重森三明館長から直々に建物や庭の解説をしていただきました

正直、松尾大社の庭を観てきたあとだったので、住宅地にある個人庭はスケール感が違いましたが、そこは茶を楽しみながら日々眺めていた生活とともにあった庭であり、こじんまりとまとめられた飽きのこない空間でした

庭のスタイルはまさしく三玲流で高価な「阿波の青石」がふんだんに使われています
なお、建物は江戸中期に建てられた吉田神社の社家である鈴鹿家の住宅とのこと
三玲はそれを譲り受け、昭和50年に78歳で亡くなるまでの32年間を家族とともに暮らしました

平たい大きな石は「礼拝石」で、三玲が移り住む前からあったもので、神職がここに立って吉田神社を拝んだそうです

この庭を再度訪れることはないと思いますが、百聞は一見にしかずということで
重森三玲という人物に少しだけ近づけた気がします
時間的にはもう一ヵ所くらい廻れそうだったけど、暑いので車に戻って、そのまま次の米原に向かいました
3日目へつづく
※写真はすべてオリジナルですが、吉田神社と重森三玲美術館の添付写真に「made wIth AI」と文字が入ってます。Windows 標準装備のCopilotに画質調整を頼んだら偉そうにAI作になりました 