神社仏閣の神仏の教えで
「徳を積む」
という考え方があります。
善い行いを貯金する
というイメージです。
「こういうことが徳を積むことになります」
という話を聞くと
どうしても
「我慢」
「犠牲」
「自分より人を優先すべき」
という印象を受けてしまうことがあります。
受けた印象どおり
これを人間関係に適用してみます。
相手の希望を察して
先回りして叶え
自分の気持ちより
相手の気持ちと顔色を
常に優先して行動していると
相手は楽チンで快適
最初はありがたがってもらえますが
しだいにそれが相手にとって
悪気なく当たり前になり
こちらは苦しくなり
そのうちこっちは、相手の前で
正直な気持ちを言う権利さえ
失ってしまうという
とんでもないことになります。
これって、本当に
「徳」を積んだことになるのかな?
逆にこちらが
自分に正直に
私はこれをするのがイヤだ
私はこうされると悲しい
相手から面倒に思われそうなことも
正直に伝えることにします。
いっけん「徳」とはかけはなれた
行動に見えますが
相手は
私が喜ぶのが見たいから
私を悲しませたくないから
気づいて私を思いやって
行動してくれます。
(そうじゃなかったら離れたほうがいいかもね)
感謝する私と
私の幸せを見て喜ぶ相手。
このとき私は、相手に
気づきと思いやりの機会を与えるという
「徳」
を行っていることになります。
寄付や救助やすばらしい行いも
「徳を積むんだ!」と意気込んで
自分に我慢させて
自分の気持ちをねじ伏せて
行動だけまねしても
不幸にしかなりません。
そして徳を積んだことにもなりません。
神仏も
そんなことを望んでいません。
自分がしたいからする
自分がうれしいからする
自分が助けたいからする
相手が喜ぶと思うと
自分がワクワクするからする
そうやって素直に正直に生きていると
そのうちのどれかが
「徳を積む」
ことになっている
きっとそういうものです。
(あるいはすべてがそうかもしれません。)
「徳を積む」ことを目的に
何かをするより
自分に正直に生きたほうが
結果的に
徳を積むことになるのです。
「徳を積む」ような行いをするとき
それは、まず
自分を喜ばせているか?
そう自分に聞いてみてくださいね。
神仏も
あなたが喜んでいることを
何よりもお喜びです。