ある批評―――――――――――――――――――

 

もし批評といふものが真の意味で創造的でありうるとするならば――――対象をかならずしも正確にとらへてゐなくともよい――――すくなくともその対象たる作品が歩みよつた地点から出発し、その重荷をかかへてそこから一歩でも先に荷をおろさなければならないはずだ。

 

 

福田恆存のこの感覚を私がまだ正確に理解しているという自信は無いが、以前読んだ時よりはその感覚がわかるような気がする。

 

いつものごとく回り道をしているように感じる。

しかしこれ以外の道を通れないということから、実は最短も回り道も私には実のところ評価できないのかもしれない。

 

対象を何にしてもよいが、同じことを繰り返し考えていた。

 

これが批評のかたちだったのだ。

 

 

 

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経験、そこから論理的に導かれたものを圧倒的に信頼している、という不自由。

彼はそれを表明するし、人に説くのはそちらの方である。

 

しかし、それは、圧倒的な存在である自然への信頼感(=それなしには始まらない前提=不自由といって差し支えないだろう)に依拠している。

 

人間なんぞに期待するからそうなると彼は言うが、これはその不自由さを遺憾なく発揮している。

 

わたしには到底“理解できない”部分だが、多分そこに引っかかってしまい幾年か経過した。

 

その不自由さはわたしには備わっていないがために、私はその評価を存分に行うことができない。

 

わたしにはよく分からないからこそ、否定も肯定もできない。

不自由さという主調低(底)音を聞いたら新たな深淵がまたこちらを覗いていた。

 

 

ただしその存在はなんとなく認めている。

そういうものがあるのだろう、と信じることしかできない。

 

 

 

先日、『海王星』という音楽劇を見た。

 

寺山修司作➡!

音楽 志磨遼平 ➡!!

ドレスコーズ 生演奏 ➡ !!!

山田裕貴 、、あ!ここは今から倫理ですのたかやな!!!!

 

ってことで、高いけど見に行ってしまった。

 

 

とてもよい空間でした。

山田裕貴の声がわりと好きだということがわかりました。

 

志磨遼平は音楽担当だけど、ちょいちょい演出的にスポットライトが当たっていて、演者の一人となっていた。

 

ステージ後方の高い位置にドレスコーズのメンバーの演奏場が設置されており、ドレスコーズ視点だと劇を背後から俯瞰できるような状態。まさに劇は全てがさらけ出されている中で行われており、劇中の人物をビリヤードに例えるなら最初に玉を動かした何かがドレスコーズのような位置にいるようにも思えた。

 

 

劇でのドレスコーズの演奏が良かったので、久々にドレスコーズの曲を聴いた。

毛皮のマリーズがちょっと好きで、そっちは聞いてたんだけど、ドレスコーズになってからのはなんか違うなと思ってほとんど聴いてなかった。

 

でも今聴いたらドレスコーズ良いのね。

なんかマリーズはガチャガチャしていたけど、ドレスコーズはちょっとシュッとした感じ。

 

 

バンドの変化もあるけど、私自身の変化のせいかもしれない。この感じ方の変化は。

 

 

 

 

 

最近ドラマ『カバチタレ』を見ている。

なんでか知らんけど急にYoutubeのおすすめにあがってきた。

 

2001年のドラマで、リアルタイムでもちろん見てたし何なら好きなドラマトップ5には入ると思うの、カバチタレ。

主題歌のキタキマユの『ドゥー・ユー・リメンバー・ミー』も当時からすごい好きだったし。

※のちにこの曲が岡崎友紀のカバーであり、作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 という事実に興奮するのは2001年から約10年後の話であるが。

 

 

今だとまずドラマで見ることのできないセクシーなシーンは、2001年だとまだ普通にあったんだなーと思ったり、深津絵里と常盤貴子が素敵すぎたり、彼女たちの役の年齢設定が28歳だったり、と。

 

当時から栄田さんと田村のぞみの掛け合いがすごく好きで見てたんだけど、やっぱり今見ても好き。

何なら栄田さんが田村と親しくなる最初のあたりの描写にざわついている。

 

 

 

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