昔話になるかもしれないが、東京五輪が決定。


日本にある種の転換期が来たのかもしれない。


こんな話を、おばあちゃんに聞いた


「向かう道に迷ったら、太陽の方を向いて歩きなさい」


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その日の夜の電話は、鳴り続けた。


当時の電話はもちろん黒電話。


リンリンとうるさいくらいになり続け、そのうち鳴らなくなった。


その事を母に告げると、母は哀しそうに笑った。


次の日、母が帰ってくるなり、私に言った


「今年の夏休みは、もう一人のおばあちゃんの家にも行くよ」


小さい頃の私にはよく分からなかった。


もう一人??


今でこそわかるが、おばあちゃんは二人いたのだ。


それまでは、夜逃げする時に住んでいたおばあちゃん、

そのおばあちゃんしか私は知らなかった。


厳密言えば、記憶になかった、、、、


小学4年生の夏休み。


その夏休みは、初めて二人のおばあちゃんの家に行くことになったのだ。


記憶にないおばあちゃん、、、


どんなおばあちゃんなのか?


優しいのか?


怖いのか?



そんな不安を持ったまま夏休みが始まろうとしている、、、、


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「太陽に向かって歩けば、


まさきの前は、いつも明るい。


色んな障害があっても、よく見えるから大丈夫」



今想う。


この言葉が心にあるから、今までの幾多の苦難も

乗り越えられた。


そして、これからの苦難も乗り越えられる。



私の人生に大きな影響を与えた、おばあちゃんの言葉。


そのおばあちゃんこそ、



もう一人のおばあちゃんなのだ



まずは、1週間ブログ更新できず、申し訳ありません。


また書いていくので、よろしくお願いします。


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さて、小学3年の冬休みは、とても楽しく、とても幸せだったのです。


そして、季節は過ぎ、小学3年生から4年生になる春休み。


春休みは、他の休みより短く、またおばあちゃんの家に行くのかなぁ?

と思っていたところ、嬉しいことに、母から「行っておいで」とOK。


この後、小学生の頃は、毎休みにおばあちゃんの家に行くこととなりました。


しかし、、、、


その春休み中、常に思っていたことがありました。


「お父さんのおばあちゃんには会えるのに、

なんで、母のおばあちゃんには会えないのか?」


実は、その当時の記憶では、母のおばあちゃんの記憶がありませんでした。


理由は、父方のおばあちゃんと生まれた時から同居していたので、小さい頃は

あまり会う機会がなかった、という事です。


子ども心に思いました。


「なんでだろう?」


「会いたいなぁ」


母にも聞けないまま、春休みが過ぎました。


そんなある日、やはり気になった私が聞きました。


「なんで、お母さんのおばあちゃんには会えないの?」


その時の母の顔は忘れません。


いつもなら、すぐに答える母がじっと黙り、、、


「まだ会えないの」


とだけの一言。


母が辛い顔をすると、それ以上は聞かない、ことが私でした。



そして、また時は過ぎ、


ある日、一本の電話が鳴ります。


母が家がいない時に電話に出るのは、私の役目。


「もしもし」


「まさきかい?なおきかい?

おばあちゃんだよ

おかあさんはいるかい?」


全てが一瞬でした。


聞いたことのない声。


おばあちゃんを名乗る声。


よく分からなくなり、電話を切りました。


その後、何度も鳴る電話には、怖くて出れない私。


怖い電話には出ない、という習慣が働くのです。


母が帰ってくる時間が、とてもとても長く感じていました。


この電話が私の人生を変える事になりました。



小学3年生の冬休み。


当時の私達は、休みが始まると、弟と二人で

千葉のおばあちゃんの家に行くことになった。


その冬の正月は、初めておばあちゃんの家で過ごす事になった。


夏休みと同じく、おばあちゃんはご馳走をいっぱい作ってくれる。


もう食べれない、っていうのにいっぱい作る。


そして、大晦日がやってくる、、、


おばあちゃんが、大晦日のご馳走をつくりながら言った。


「おばあちゃんは嬉しいよ。

まさき達と一緒に正月と迎えれるなんて」



私達も嬉しかった。


今までは、大晦日まで母が仕事をしていたので、寂しい正月。


だから、その年の正月はとても嬉しかった。


大晦日のご馳走を食べながら、めったに話さない、じいいちゃんが言った


「いっぱい食べて、大きくなって、

また来年も来るんだぞ」



そう言ったじいいちゃんはいつになく笑顔だった。


そんな幸せな冬休み。


でも、今想うのは、そんな時でも母は一生懸命働いていた。



ありがとう、おふくろ



私の母の口癖は


、、、、、



「まぁ、いいか、何とかなるよ」


前向きな母らしい口癖。


どんな時も、どんな時も、この口癖で乗り越えてきた(笑)





さて、時は遡り、小学3年生の冬。


もうすぐクリスマス。


クリスマスと言えば、サンタさんが子供の寝た頃にやってきて、

プレゼントを置いていく、という夢のようなイベント。


しかし、私の家は周りの家とはちょっと違う、、、


なにせ、母はサプライズが大の苦手。


だから小さい頃から、クリスマスには、サンタではなく、

母がお菓子を枕元に置くのがばれていた(笑)


貧乏なので、おもちゃなどの高価なプレゼントはない。


だから、出来ればばれないようにおいてくれないかぁ?


なんて思っていた3年のクリスマス。


ただその年のクリスマスは少し違った。


まずは、クリスマスの夜に、クリスマスケーキが、、、


今は見ないバタークリームのケーキ。


当時はもう大喜びの御馳走。


ケーキをお腹いっぱい食べ、満足した記憶がはっきりと。


「あとは、ばれないようにプレゼント置いてくれないかぁ?」


なんて、無理なお願いを胸に布団に入る私。





次の朝、私の枕元には、いつもと違うプレゼントの袋。


今までなら、赤い靴下の形をしたお菓子のプレゼントなのに、、、


私が袋に気づいた事を気づいた母が、こちらを見ている。


それもニコニコ顔、、、、




私は心の中でつぶやく

「バレバレだよ、母さん、、、」


そして、袋の中身は、、、、、


、、、、、、、


、、、、、、、



なんと!!!
















野球のグローブ!!!!


欲しかったグローブ!!!





驚いた私に母が一言



「よかったねぇ、まさき。


サンタさんがプレゼントしてくれたんだねぇ」


、、、、、


、、、、、


心の中で思った。


「私にはサンタはいないけど、


かあさんがいるから、


まぁ、いいか」



やはり、私は母の子供だった(笑)




小学3年生の夏休みが終わった。


毎日、毎日、母親は私達の為に夜遅くまで働いている。


いつも帰りは10時以降、、、、


夏休みにおばあちゃんと一緒の時間が長かったせいか、かなり寂しい毎日がきた、、、


でも、私には弟がいた。


おかげで寂しさも和らいでいるし、弟を守る、という気持ちで頑張れた。


そんな毎日だが、どうしても我慢できない事が一つ、、、


それは、、、、、


母が帰るまで、お腹がすく。




毎日母が遅いので、ご飯も必然的に遅くなる。


夜の10時まで、食べ盛りの子供2人は我慢できない。


そんな中、自分達でご飯を食べる事を考えた。


、、、、、


、、、、、


結果が、シンプルイズベストの、、、、




塩おにぎり



今コンビニでたまに、塩おにぎり見かけるけど懐かしい。


さて、この塩おにぎりは、ある日から私達の定番の食事になった。


母が帰るまで、自分達で握って食べる。


そして、さらに進化したのが、、、、



塩どんぶり



これは究極の手抜きであるが、意外にうまい。


おにぎりは、塩加減が難しく、中の飯まで塩味がない時が多い。


しかし、塩どんぶりは、茶碗にご飯を入れて、塩をかけ、

その後、かき回して、また塩をかける。


こうすると万遍なく塩味がいきわたる。



塩どんぶりは、最高の食事であった。


お金がないので、家にはおかずは少ない。


しかし、私の家には、おばあちゃんから送られてくるお米がいっぱいあった。


おかげで、塩どんぶりはいつも食べていた。



母が、塩どんぶりを食べている私達に気づいた時、

「いつも遅くて、ごめんね」

と言った。






あの時、言えなかったので、今言おう


「あの塩どんぶりは、私達のご馳走だったから、

かあさんは気にしなくていいよ」




ちなみに、ご馳走第2弾は、醤油炒めご飯である。



分かる人いるかなぁ?(笑)