HtC-16ブログ

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Be your best and truest self!

父の病気を知り

そのまま入院することになった。

俺はもう、父が家で暮らすのは

難しいと思っていた。

父が入院してから間もなくして

ケアマネから連絡がきた。

父の状態を伝えると

介護保険は、自宅で介護するための保険だから

「区分変更の申請を取り下げます」

と言われた。


腹が、立った。


まるで父がもう帰ってこないことを

死ぬ前から決められてしまったような気がした。

だから、申請を取り下げず

区分変更を望んだ。

電話を切ってから、少し冷静になった。

介護保険って

自宅で介護するためのものなのか。

じゃあ、病院にいる父ちゃんには

もう意味がないのか?

俺は不安になった。

看護師さんに聞いてみると

病院にいても

市役所から認定調査に来てもらって

区分変更はできると言われた。

入院当初

病院専属のケアマネからも

父の体調が落ち着けば

一時退院することもできると

言われていた。

ただ、移動も大変だし

車椅子を乗せられる車を

レンタルする必要もあり

自宅に酸素の機械を

用意する必要もある。

それでも、自宅に帰ることはできる。

俺は、介護ベッドも必要だと思っていた。

自宅での訪問診療の回数を増やして

最後は自宅で看取る。

そんなことも相談した。

できなくはない。

でも、俺の負担はかなり大きい。

大変だと言われた。

病院にいれば

食事やお風呂もトイレも

看護師がやってくれる。

俺が介護をするより

病院にいた方が

父ちゃんの身体への負担が少ない。

痛い思いをしないですむ。

やっぱり、自宅で最後まで看取るのは

無理かもしれない。

そう思った。

「それでも最後まで

父ちゃんと一緒にいたかった。」

だから俺は、区分変更をするつもりだった。


そして、父が亡くなって4日後。

郵便ポストには

「要介護5」と書かれた 

介護保険証が届いていた。

父が帰ってくるために

申請したものだった。

父は、帰ってこなかった。

でも、その介護保険証だけが

父が亡くなったあとに

届いた。


追記

16年くらい前、父が墓を作った頃だった。

ある夕方、父からポラロイドカメラを渡されて

「墓の写真撮ってこい」

と言われた。

日も暮れかけていた。

墓は、ちょっとした小高い山にある

神社を道路で挟んだ隣にあった。

周りは林で、鬱蒼としている。

夕暮れの薄暗さと、カラスの鳴き声。

人の気配なんてまったくない。

正直、

「こわっ!」

と思った。

急いで写真を撮って、家まで走って帰った。

そして写真を見てみたら

光のオーブみたいなものが

いっぱい写っていた。

当時の俺は

「なんだこれ?

すげーな」

なんて思っていた。

そのとき、アメブロにも書いた。

「あと、こうして親父と

何年いられるんだろ?」

16年前の俺は、

そんなことを考えていた。

あれから16年。

本当に、父ちゃんとの時間は終わった。

でも、あの頃の写真も

あの頃に書いた記事も

今こうして書いている

父ちゃんの最後の日のことも

全部アメブロの中に残っている。

そう考えると

父ちゃんはまだここにいるような気がする。

忘れられなければ、消えない。

だから

これからも俺が

父ちゃんのことを思い出すたびに

ここに父ちゃんが残っていくんだと思う。

そんなことを考えるていたとき

この曲がイヤホンから流れてきた。


なんとなく

父ちゃんのことを思った。


父が亡くなってから、色々なことを思い出す。

7月29日のことを書いている途中でも

「あれ、そういえば…」

と、昔のことが次々に出てくる。

忘れないうちに、父が入院するまでのことも

少し書いておこうと思う。

今年の1月、母は介護保険を使っていたので

まだ父には必要無いと思っていたけど

今後のことを考え、軽い気持ちで市役所に行き 

要介護認定を申請した。

2月に承認され、父は要介護1だった。

それまでも足腰は弱っていたけれど 

杖を使えば歩けていたので

歳相応なのかなと思っていた。

父の着替えの手伝いをしているとき 

父の足が腫れていることに気づいた。

骨折していると思い、病院へ連れて行った。

診察した医師は

「足を見るわけでもなく、骨折じゃない

違う病気が原因かもしれない」と言った。

レントゲンを撮ると肺に影があると言われた。

ここでは詳しく調べられないからと

大きな病院へ紹介状が出された。

1月、認知症の母を自宅1人置いておけないので

兄に頼んで父を病院に連れて行ってもらった。

診察結果は高齢なため、肺の細胞診検査は

負担がかかるのでおすすめしない。

そう言われ経過観察になった。

3月頃、腰のリハビリで通ってる整形外科に

処方箋をもらおうと行ったら

主治医が不在で他の医師が診察していた。

診察しないと薬は出せないと言われ

診察をすると

父の足は骨折していたことが分かった。

しかも、すでに治りかけていた。

「やっぱり1月に骨折してて、それが原因で

足が腫れてたんじゃねーか」

そのときは、そんなことを思っていた。

肺にも影があると言われていたけれど

20年くらい前にも肺に影があると言われ

結局は良性の脂肪の塊だったことがあった。

だから俺は医者に影がある言われても

父が悪い状態だとは全く思っていなかった。

でも、父の体は少しずつ弱っていた。

5月終わりくらいからは、1人では

杖を使っても歩くのが困難になった。

自宅では座っていることが増えた。

尿もれも酷くなりリハビリパンツを 

使用するようになった。

6月頃には、お風呂やトイレ

寝るときには

俺が抱っこして運んでいた。 

今後のことも考え、介護ベッドのレンタルを

ケアマネに相談した。

要介護2以上じゃないと

借りられないと言われた。

区分変更と、父の状態を見てもらうために

訪問診療もお願いした。

俺は最後まで父を自宅で介護するつもりだった。

6月半ばになると

父は食事も、なかなか食べられなくなっていた。

毎日、1時間くらいかけて、お粥を食べさせた。

スプーンで少しずつ口元へ運ぶ。

なかなか飲み込めない。

それでも、食べてほしかった。

排便や尿漏れも増え、洗濯物もどんどん増えた。

リハビリパンツをしていても

布団や座布団、絨毯にも漏れた。

洗えないものは消臭剤で対処した。

朝から晩まで父のことをして

そこに母の介護もある。

自分の時間なんて、ほとんどなかった。

イライラして「もう早く食えよ!」 

と怒鳴ったこともある。

もっと酷いことを言ったこともある。

「早く死んちまえよ!このやろう!」

と言ったこともある。

本心じゃなかった。

でも、言ってしまった。

今でも後悔している。

介護って、綺麗ごとだけじゃない。

大切だから世話をする。

父が悪いんじゃなく、母が悪いんでもなく

みんな病気が悪いのだから。

頭じゃ分かっている。

でも、病気だからといって

毎日ずっと優しくいられるわけじゃない。

腹も立つ、疲れる、逃げたくなる。

それでも翌日になれば

またお粥を作って、父の口元へスプーンを運ぶ。

両親を守れるのは自分しかいない。

それが俺の介護だった。


7月1日、初めての訪問診療の日。

先生に診てもらい、血液検査をした。 

俺はまだ大丈夫だと思っていた。

翌日、7月2日の早朝。

訪問診療のところから、電話が来た。

血液検査の結果だった。

高カルシウム血症。

脱水状態にもなっている。

すぐに点滴をしなければ、

このままだと1週間もたずに

亡くなる可能性がある。

そう言われ、俺は驚いた。

毎日、水やジュースを飲ませていた。

それなのに「脱水?」意味がわからなかった。

病院へ連れて行き

そこで初めて父の本当の状態を知った。

父は男性では、かなり珍しい乳がんだった。

肺を圧迫して片方の肺が潰れ 

水もたまっていた。

癌によって骨が溶け

カルシウムが尿として排出され

水分不足になり脱水症状を起こしていた。

相当な痛みがあったはずなのに

父は俺に何も言わなかった。

俺は何も分かっていなかった。   ⑦に続く

その後、4時1分

医師が来て、父の死亡が確認された。

俺は医師の顔を見て

この人、眠そうだなって 

そんなことを考えていた。

死亡診断書を見せられ名前欄にサインをした。

そして頭の中には

「なんで俺は寝てしまったんだろう」

「なんで最後まで

ずっと手を握ってやれなかったんだろう」

その思いだけが頭に残り

後悔だけが残った。

兄に電話をした。

「父ちゃん、死んじゃった」

そう伝えた。

父が亡くなった直後

看護師さんからは

「葬儀屋を直ぐ手配して下さい」

と言われた。

遺体を安置しておく場所が病院にはないので

すぐに病院から運んでほしいとのことだった。

煙草も吸いたかったので 

車で葬儀屋に連絡しようと思い

駐車場に向かった。

その途中、普段なら絶対に買わない

病院の自動販売機で

170円の缶コーヒーを買った。

車に戻り、煙草を吸いながら

葬儀屋に連絡を入れた。

俺はまだ、父が亡くなると思っていなかった。

父が死んだら

直ぐ病院から出さなきゃならないことも

知らなかった。

だから

「昨日、とりあえず葬儀屋を決めておいて

良かった…」そう思った。

葬儀屋に父が亡くなったことを伝えると

「到着まで1時間くらいかかります。

着いたら電話します」と言われた。

そのことを伝えに病室に戻ると

父の荷物がまとめられていて

大きなビニール袋に詰められて渡された。 

また車に戻り、荷物を積んだ。

病室に戻ろうとしたところ

「着いた」と兄から電話がかかってきた。

兄を出迎え2人で病室に戻った。

すると看護師さんから

「お父さんを着替えさせるので

病室を出てください」と言われた。

その時、白い服のようなものを

着せるかどうかの話になった。

5000円だった。

父が死んだばかりなのに

もう金の話かよ…そんなことを思った。

入院してから買った、ほとんど着てない

パジャマが3着あった。

だから父はパジャマのままにした。

着替えも終わり、病室に戻ると

父の口が開いてしまうから

口が開かないようにと

タオルを使って

顎から頭のほうへ巻いたと説明された。

父の顔を見ながら

俺はただ立っていた。

亡くなったばかりの父は

まだ温かかった。

さっきまで生きていたんだから

当たり前なのかもしれない。

その温かさが残っている父を見て

本当に死んでしまったんだということが

まだ頭では理解できなかった。


5時30分頃。

葬儀屋から到着したと連絡があった。

看護師さんと葬儀屋を出迎え

父を乗せて

セレモニーホールへ向かった。

父をセレモニーホールに安置して

兄と2人で線香をあげた。

そこで父と別れた。

ドライアイス代1日38000円。

高けーなー。

そんなことを考えていた。

そして朝7時。

俺は家に向かっていた。

早朝7時の景色は

いつもと何も変わらなかった。

いつもと変わらない道。

いつもと変わらない景色。

いつもと変わらない朝。

でも

俺の中では

何もかも変わっていた。

父ちゃんが死んだ。

それなのに

世界は何事もなかったように

朝を迎えていた。

自動販売機で

缶コーヒーでも買おうかと思い

車から降り

ドライブに入れたまま 

その場を離れてしまった。

車が勝手に進んでいる。

それを見て

俺は現実に戻った。

「ああ……

俺、何やってんだ」

父ちゃんが死んだ。

たった数時間前まで

生きていたのに。

俺は父ちゃんの最後を看取った。

そして

家に帰ってきた。

いつもの朝だった。

でも、もういつもの朝じゃなかった。

父ちゃんがいない。

それだけで何もかも違って見えた。


⑥に続く


19時。

兄に母を連れてきてもらった。

母は認知症だから

大部屋のときは連れてこなかった。

泣き叫んだり錯乱したりしたら

他の患者さんに迷惑がかかると思ったから。

だから

それまで母は父に一度も会わせていなかった。

でも、もう最後かもしれない。

そう思って

連れてきてもらった。

面会中

母は泣き叫んで錯乱していた。

父のことを旦那ではなく

自分の父親だと思っていた。

暫くすると母が

「もう帰りたい」と言い出した。

20時30分

兄が母を連れて帰った。

看護師さんからは

「一人じゃ大変だから

兄弟で代わりばんこに

病室の外の椅子で寝てもいいですよ」

と言われていた。

だから兄に

「母を送ったら、

また来るよね?」

と言った。

「一人じゃ不安だし」

と。

でも兄は

そのまま帰って戻ってこなかった。

父の最後。

たった数時間さえ

一緒にいてくれないのか。

そう思ったら悲しくなった。

俺は父の病室と

病室の外にあるソファを

何度も行ったり来たりした。

父は痰が絡んで

苦しそうに口で呼吸をしていた。

それを見るのが嫌だった。

何度も看護師さんを呼んで

痰を取ってもらった。

看護師さんは

「呼吸や心拍数は看護室で

常にチェックしているから

何かあったら起こします。

寝ていて大丈夫ですよ」

と言ってくれた。

でも、寝られるわけがなかった。

深夜3時過ぎ。

病室に大きなモニターが

運び込まれてきた。

父の胸などに

機械が取り付けられた。

モニターには

緑色のランプが光っていた。

看護師さんに

「少しソファで休んできてください」

と言われて

俺は病室を出た。

そして

軽く寝てしまったらしい。

看護師さんに

ちょっと危ないかもしれないと起こされ

病室へ戻った。

父の呼吸は浅くなっていた。

モニターのランプは、

緑から黄色へ行ったり来たりしていた。

俺は父に声をかけた。

「父ちゃん」

すると黄色だったランプが

緑に変わった。

何分経ったのかは分からない。

緑だったランプが黄色になり

そして赤になった。

俺は父に声をかけ続けた。

「もうすぐ稲刈りやんだから

父ちゃんいなくちゃ駄目だろ!」

「ふざけんなよ!

頑張れよ、父ちゃん!」

「一人じゃ田んぼできねーよ!」

すると

赤だったランプが黄色になり、

そして緑に戻った。

俺は

「戻った……」

と思った。

でも、3時45分。

ランプは赤に変わった。

今度は

緑に戻ることはなかった。


⑤に続く。

そう言えば

7月15日のことも思い出した。

父は7月2日から

この病院の一般病棟に入院していた。

その後、緩和ケア専門の別の病院へ

転院する話も出ていた。

その病院は場所も遠く通うは大変

だから俺は

病院専属のケアマネと話して

母もかかりつけだし

昔から知ってて安心出来るから

「今の病院がいい」

と伝えた。

ただ、緩和ケア病棟には

空きがないと言われて一度は諦めていたんだ。


それでも後日

ちょうど空きが出てたと連絡があり  

空きが出た理由も深く考えず 

一安心した。


7月15日から

この病院の緩和ケア病棟へ

移ることができた。


そのときは大部屋だった。

父の病室が整うまで

「こちらのソファで休んでいてください」

と案内をされ

俺はソファに座って待っていた。

そのとき

少し離れたところから

歌声が聞こえてきた。

前の部屋から面会に来ていた

おばちゃんだったと思う。

旦那さんだったのか

子どもだったのか。

誰に向かって歌っていたのかは

今となっては分からない。

ただ

「この歌、好きだったよね」

そんな言葉が聞こえてきた。

昔の古い歌

外まで聞こえるくらいの声で

何度も何度も歌っていた。

俺はそのとき

「ああ、

ここではこんなふうに

歌ってもいいんだ」

そんなことを思った。

緩和ケアについては

医師から説明を受けていた。

だからどういう場所なのかは

分かっていた。

でも、そのときはまだ、

それが父にとって

どういう意味を持つのかを

実感してはいなかった。


そして7月29日。

その個室を見て俺は気づいた。

そこは

7月15日に初めて

緩和ケア病棟へ移ったとき

父の大部屋が整うまで

ソファに座って待っていたときに

見た部屋だった。

そのときの俺は、

大部屋も個室も

よく分かっていなかった。

個室は高いんだろうな

くらいの認識しかなかった。

まさか個室に移ることが

どういう意味なのかなんて

そのときは知らなかった。

でも今その部屋に父がいる。

そして看護師さんから

「誰でも好きに会わせていいですよ」

そう言われた。

そのとき初めて

「個室に移るって

そういうことなのか……」

と思った。

でも、まだ信じたくなかった。

ここで、もう一つ

思い出したことがある。

父が初めて病院へ運ばれたとき

診察をした医師から

「もう手の施しようがない」

そう言われた。

そのとき

延命を望むのか

自然な形で最期を迎えるのか、

そういう話になった。

介護士をしている兄からも医師からも

「延命すると本人が苦しむことになるから

おすすめしない」

と言われた。

俺も父を苦しませたくなかった。

そのときは

自然な形で看取ることを選び

書類に名前を書いた。

でも、7月29日。

病院から

「容体が急変した」

と呼ばれたとき

俺の気持ちは変わっていた。

どんな形でもいい。

どんな状態でもいい。

生きていてほしい。

そう思った。

看護師さんに

「どんな形でもいいから

生きていてほしいんです

だから延命処置をお願いします」

そう伝えた。

すると、延命処置をするには

病棟も一般病棟に移動が必要になり

そのための手続きと

先生の確認が必要になると言われた。

でも、その先生は手術の予定が入ってるので

確認が取れるのは

30日にならないと無理だと言われた。

それでも俺は

「お願いします」と頼んだ。

夕方、病院へ戻ったとき

看護師さんから

延命について改めて話をされた。

延命処置をすると

父は相当苦しむことになる。

人工呼吸器をつければ

「外したら殺人罪になるから

一度つけたら絶対に外せない」

そう説明された。

人工呼吸器で無理やり呼吸をさせることで、

肺が潰れてしまうこともある。

そして

ものすごくお金もかかる。

そう言われた。

従兄弟からも兄からも

「父ちゃんは

相当苦しむことになる」

と言われていた。

看護のプロである看護師さんからも、

延命はやめたほうがいいと言われた。

俺は生きていてほしかった。

どんな形でもいいから

ただ生きていてほしかった。

でも

父を苦しませてまで

生きながらえさせることが

本当に父のためなのか。

そう考えた。

そして俺は

延命処置をしないことを選んだ。


③に続く。

父は7月1日

訪問診療で行った血液検査の結果から

緊急入院することになった。


そして

7月29日、早朝7時48分。

父が入院している病院から

俺の携帯に電話が来た。 

通常面会は15時から17時までなんだけど

「容体が急変しました。

何時でもいいので、すぐに来てください」

そう言われた。

急いで兄に連絡を入れた。

でも、その日は母のデイサービスの日で

急遽キャンセルすることもできず

9時30分に母を

デイサービスへ送り出してから

10時に兄と病院で待ち合わせをして

2人で父の病室へ向かった。


父は、その頃、緩和ケア病棟4人部屋 

大部屋にいた。

面会はコロナ以降 

面会人数は3人まで 

時間にも制限があり

15分しかない。

父が個室に移動すれば

面会の制限もなくなって

誰でも会えるようになると聞いていたんだ。 

それは最後を迎える人の部屋。   

だから俺は 

まだ大丈夫だと思っていたんだ。


父の面会は15分で終わった。

なんか、帰ってもいいみたいな雰囲気だった。

「なんだ、急変って言っても全然大丈夫じゃん」

正直、そう思った。

看護師がちょっと大袈裟に 

言ってるんじゃないかと…。

帰り際、兄から

「今後のことも考えて

従兄弟に葬儀屋のこととか相談してみたら?」

と言われた。

従兄弟は26歳年上で数年前

親を2人見送ってる。

俺は帰りに従兄弟の家に寄って

いろいろ相談した。


父は主治医に「今年いっぱいくらいじゃないか」

と言われていた。

嫌だった。

本当に嫌だった。

親父は死なない。

だから葬儀屋なんて知らない。

そんなものを考えたくなく

見て見ぬふりをしていた。

でも、葬儀屋くらいは何ヶ所か見て

決めておいたほうがいいのかもしれない。

そう思った。

従兄弟と1時間くらい話をして、

その帰り道にあった葬儀屋へ入ってみた。


葬儀代、高けーなー。


そんなことを思った。

互助会に入れば安くなると言われた。

亡くなってからでは入れないから

今なら割引できるとも言われた。

引き落としの口座とハンコが必要らしく

その場は一旦帰宅した。

兄に連絡すると

「とりあえず入っとけば?」

くらいで言われた。

月3000円。

しかも最初の2ヶ月分は 

今サービス期間中だから無料と言っていたし

嫌ならやめればいい。

そんな軽い気持ちだった。

もう一度葬儀屋へ行き

無料だと思っていたら

なぜか3000円取られて

そのまま会員になった。

とりあえず

「他の葬儀屋さんも見て回るから、

違う葬儀屋に決めるかもしれません」

そう伝えた。 

翌日は、いろいろな葬儀屋を

回ってみようと考えてた。

時間的に遅くなってきたし

そのまま病院に戻ろうと思ったけど

早朝に叔母から叔父が

「父に会いたい」って  

電話をくれていたことを思いだした。

会わせてあげようと思った。

午後15時過ぎ

叔父を迎えに行き 

病院へ向かった。

まだ大部屋だった。

だから、まだ大丈夫だと思っていた。

15分の面会が終わり

そして帰ろうとしたとき

看護師さんから

「今夜は泊まっていいので、

また病院に来てください」

と言われた。

叔父を送り届けて

夕方、病院へ戻った。

すると父は、

緩和ケア病棟の個室へ

移っていた。


②に続く