いつの時代も、権力者は妄想の捌け口として、

他人の自由に介入し、制限と破壊をしようとする。

 

         映画「キリング・フィールド」では、カンボジア内戦で

クメール・ルージュの支配はなんびとも兵士の意にそぐわなければ死を意味した。

組織としてのルールはおろか人間の感性すら皆無の集団、

狼の群れにも劣るクメール・ルージュの権力集団だけでなく、

兵士一人一人が権力者の「虎の威を借りた」ギャング集団だった。

webより

          なかでも、少年、少女兵の生きるという意味、

自由の理解といった経験や感情すらほとんど希薄な、

洗脳された殺人マシーンとしての人間とは思えない行為には戦慄した。

 

         人類はいつまで経っても

自己の自由を理念と目的に向け進むテーマを見つけるのは難しく、

どこか誰かが示し、導いてくれるのを待ち望んできた。

 

          ヒーロー願望しかり、幾多の宗教に走るのも、

他に頼る行為である。スポーツや権力思考も明快な答えとして飛びつきやすい。

そして、権力者は自己の自由を創造性に結びつける方向には向かえない腹癒せに

他人の自由を悪どく痛めつけるサタンになって、快楽を得るという人達なのだ。

 

          それにしても、クメール・ルージュも

アメリカの権力者のハゲタカ行為、戦争によって海落とされた鬼っ子とも言える。