中曽根政権の1983年頃、科学技術館の山田英徳さんから電話があり、

テクノパーク委員会のメンバーになるかという問い合わせがあった。

山田さんとは異業種交流会が当時流行しており、何かの切っ掛けで、

科学技術館の山田さんや下崎さんとMCCという会に入っていた。

山田さんは高校生のロボットコンテストの仕事を中心にやっていた。

 

   アメリカでは日本からの輸出攻勢に対し、

特に自動車の影響は日米の関係がやばい状況になっていた頃だった。

ロンヤス(中曽根康弘 & ロナルド・レーガン)会談を通じ、

自主規制から始まって技術開発の過去の歴史にまで至った。

つまり、例によって、技術に対しても、ただ乗りしているのではないかという話である。

   日本も、特に、江戸時代から様々な科学技術の開発を進め、

現在に至った歴史と物証を見せなければならなくなったという訳である。

 

   私も通産省に行き、多分並木課長からだったと思うが、ヒヤリングを受けた。

通産省から科学技術館へテクノパーク構想委員会設置の依頼ということになる。

しかし、国として科学技術館的なものをつくる予算は無く、

その矛盾した条件での可能性を探るテーマだった。

 

   しかし、委員会のメンバーは当時、日本を代表する創造力を発揮している人たちばかりであった

座長は東大の渡辺茂先生〈1918~1992年〉、マイコンの命名者の先生の話で記憶に残っているのは、

赤ん坊が立って歩く前の「ハイハイ」で

家中を四つ足で歩き回る行為が頭脳や感性を育てる重要性を度々聞いた。

目先、指先や鼻や舌、口唇に伝わる刺激や臭いや味といった体験がとても創造性を育てる重要な要素なのだという。

今のIT時代になっても、特に感性によるリアリティがあらゆる文明の出発点になっていると渡辺先生は言っている。

  

参考:1983年8月5日~9月4日/単独でアメリカ東部の野外彫刻 撮影・取材  ~

同年 9月ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィア、シカゴ、

フロリダ、カナダなどの博物館 撮影・取材 (一部テクノパーク構想委員会委員として)

(うち8月24日~9月4日 テクノパーク海外視察に同行/

NASAケネディ・スペースセンター、エプコットセンター、シカゴ・科学産業博物館、

オンタリオ科学センター、ナイアガラ、スミソニアン博物館など視察)

 

渡辺 茂先生 https://gendai.media/list/author/Shigeru_Watanabe_1918 顔写真あり

SHIGERU WATANABE 東京大学名誉教授/システム工学者 

PROFILE:1918年姫路城下に生まれる。東京帝国大学工学部卒業

東京大学工学部教授、東京都立工科短期大学(のち東京都立大学)学長、

日本システム工学会会長、AI協会会長、日本マイコンクラブ初代会長、

国語審議会委員などを歴任。

工学博士。専門の機構学はもちろんのこと、

情報科学、学習機械の開発などで意欲的な研究活動を重ねた。

1992年逝去。著書・訳書多数ある