漂流は終結、あるいはある種の目的に向かって行けば、漂流とは言わない。

日本は何十年と続く国家のヴィジョン、目標あるいは理念といったものがなく、

太平洋戦争後の、未だに続けられてきた経済復興という

衣食住といった人間の基本を満たすだけではなく、

生活の豊かさ、知的な感性を満足させる文化や自然に包まれた環境、

未来に向けての夢を育む創造的なヴィジョンを

僅かでも構築、築いてゆくことが必要だろう。

 

          作品は日本の現状認識、漂流の表現をしているわけではない。

漂流にストップをかけ、それらを組み立て直して、

漂流モニュメントを築こうというわけでもない。

漂流をミキサーにかけ粉砕し、どろどろにして

コンクリートのように鋳型に流し込めようというわけでもない。

          流れに任せている漂流物それぞれが意志を持ち、

目的に向かって自分の道に向かうべきだと言っているのだ。

自作品「漂流のベクトル」 w1370xh2200mm  合板、MDF、木、アクリル絵具 2022

 

自作品「漂流のベクトル」部分

         日本国の大から小まで、親方日の丸、

お上の命令で、自分の頭で考えることを忘れたロボット化が蔓延しているのである。

 

        漂流のベクトル化が進んでもこれも一つの流行現象として、

また漂流になってしまうのだろう。

しかし、様々なベクトル化とベクトル度少しは役に立つ切っ掛けになる。