かつて20世紀後半から末にかけて、
人の生活や思考、行動などあらゆることが浮足立って、
新しい時代、ミレニアムに向かって
新人類に脱皮しなくては生きられない気分だった。
しかし、日本は国づくりの理念を実践するような気運も、
新しい歴史を築くなどなく、浮かれ騒ぐだけで、バブル崩壊はその結果だったに過ぎない。
いつまで経っても農村型のライフスタイル、精神構造が変わらず、米をつくって一年が終わる。
食べるに困らなければよいという生活が何百年も何千年も続いてきたのである。
質素な生活は物や事との交わりは少なく、当然人との交流も少なく、
言葉ではなく腹で解る、世界でも特異なコミュニケーションも生まれた。
つまり、いつの時代も鎖国をしていたのである。
そして、為政者にとっては、世界がどのように動いているのか、
極東の島国で洗脳という意図がなくても、コントロールのできる一体感、まさに単純な社会だった。
本能としての表現することすら問題になっていなかった。
為政者にとっての肖像画や歴史絵巻の類。もちろん、例外はある。
誰もが知っている江戸時代の浮世絵などである。
しかし、世界に比べ圧倒的に量とバリエーションの事例は少なく、日本の経済活動の貧困さを物語っている。
日本は20世紀まで西欧が築いてきた土台を発展させることで、経済を築いてきた。
世界では、21世紀は経済戦争に限らず、文化戦争までも新しい分野の開拓に国の命運を賭けている。
しかし、日本の場合、現在も江戸時代までの農村型思考からは情報社会への脱皮は進んでいない。
日本はまず人の潜在的に持つ本能の解放を目指さなければならない。
特に、日本のようなロボット人間、サイボーグ人間への転換を進化とすり替える国では、
これからの国際社会でのコミニュケーションと生きてゆくのは難しい。