映画はのっけから、ありえない展開で始まる。

アマゾン川の一大開発拠点、ブラジル、マナウスにクラウス・キンスキキー主演の

フィッツカラルドとクラウディナ・カルディナーレ演ずる愛人モリーが

上流2000kmのペルーのイキトスから手漕ぎボートでへろへろになりながら、

オペラハウスにやっと辿り着く。

エンリコ・カルーソーを聞くためだ。

19世紀末、マナウスにはアマゾンのゴム・ブームにより持たらされた繁栄の象徴

オペラハウスがあって、なおかつ当代一の人気オペラ歌手カルーソーと

オーケストラがやって来るなど異次元の出来事だ。

 

     ほらふき男爵も飽きれるほどのフィッツカラルドはまず、

南米横断鉄道を計画するが頓挫。

製氷工場などの事業によって資金を蓄え、最終的にはオペラ狂いの彼の夢、

イキトスにオペラハウスを建てようと夢見る途方もない人間。

 

     未開のアマゾン河上流、首狩り族のテリトリーと噂の広大な土地を買い、

そこでゴム栽培をして一旗揚げ、資金調達を考える。

まずは現地でできたゴムをマナウスにどう運ぶのか。大型船を買い、実地調査に上流に向かう。

 

     アマゾン川が2つに分かれるパチテア川は途中で船の航行は不可能。

目的のアマゾン川支流ウカリヤ川へは、

この二つの支流が小山一つで接近した部分での、

文字通り、船の山登り映画のクライマックスだ。

      船のエンジンを使ったウィンチがあったにしろ、

何故か、原住民の自発的協力作業に助けられ、

何百トンもある大型船が42度もある急峻な斜面を

熱帯の汗と泥にまみれた人力で頂上に少しづつ引き上げられてゆく。

あまりにばかげているリアリエティは、

日常起こる感動とか驚きの範疇を超えている。天地の逆転とかに近い。

 

     これらに一連のフィッツカラルドの動きを見ていて、

アートの原点、偉大な表現とはどんな時に起きるのかを見た気がした。

フィッツカラルドが非常識の世界に知らずに踏み込み、

次元の異なる世界での活動表現をしなければ、

今の時代のように、CGを多用したものでは、通り一変の平凡な映画になっていたのだろう。

 

     絶体絶命の狂気や怒り、あるいは反対に、天に舞うがごとき歓喜、

我を忘れ、地に足がつかない興奮の絶頂、別人格も超えるというより、

神に近い飛躍がやっと非日常の扉を開け、創造の扉を開けられるのだろう。

 

     マルセル・デュシャンが既製品の便器を作品にし、

フィッツカラルドの山を登る船があってもよい。

それにしても、小心翼々、チマチマした思考を捨てなければ、

神になったつもりになれなければ、アーティストにはなれないということか