清々しく、気持ちの良い映画を見た。

井原西鶴原作の「好色一代男」は大坂の大店の放蕩息子世之介の物語である。

いい女には眼がなく、勘当されても、本能に突き動かされ女探しに日本中を駆け巡る。

     武家、花街、上流も下流も分け隔てなく、純粋に女の美しさを愛おしく、

愛でる世之介(市川雷蔵)。

     江戸時代の性に関する開放的で自由に生きた生活と活力が

規則や宗教などの縛りなどなく、自然体で展開するのはまさに浮き世時代が満開で

日本が開放されていたことを見た気がした。

 

     男の性に関する本能と欲望を映画で表現した、傑作「好色一代男」を見た後、

すぐ、西欧ではと5、6年前に見たパゾリーニの「デカメロン」と「ソドムの市」をTSUTAYAで借りた。

 

     「ソドムの市」はプライバシーそのものである性を、

為政者は自分たちの都合で管理しようとするストーリーである。

金と権力はあっても、性力を失ったファシストがイタリア北部の村から、

処女や童貞の美少女美少年を狩り、性的虐待、スカトロといった、

これから性の快楽の目覚めを摘み取ることで、自分たちの不能の腹癒せと、

その屈折したみじめな刺激による自分の性の復活を夢想する。

 

    1944~45年を背景とした映画は、イタリア・ファシストの断末魔は近く、

絶望の中で「性と快楽」を新たな表現を開拓するのではなく、暗く、陰湿な地獄へ真っ逆さま。

つまり、生きる目的が根本から崩れ落ちてゆく存在理由を失った男の末路を見た。

 

    そして反対に、四人の語り部の内の一人、カステリ夫人を演ずる

カテリーナ・ボラット(写真左から三人目)のはちきれんばかりの性の快楽を貯めこんできた、

女王蜂ともいうべき色気を発散させ、

悠然と装うイタリアを代表するかつてのディーバの対比は

性の次元の違いと落差に圧倒された。

 

     個人的には、パゾリーニで止まった頽廃のヴィジュアル化はもっと進めてほしいと思っている。