なぜ初期消火ができなかったのか。

 

スプリンクラーや消火用放水砲などの設備がなかったのか。

阪神・淡路大震災の神戸市長田区のように、

地震後に少しづつ燃え始め大火災になった無念さの

反省と人間としての知恵が働かなかったのは何故か。

無防備としか見えなかったことへの、余りの落胆は全身の力を弛緩させた。

 

 

   今年6月に沖縄を訪れ、那覇市や浦添市などをぐるぐる回り、

都市環境の向かっている方向や姿勢を見てきた。

太平洋戦争の末期、沖縄戦によって

それまで築いてきた琉球王朝の文化遺産なども跡かたなく塵芥になった。

 

それだけではない、戦後、米軍に占領され、

好き勝手に広大な基地をつくり現在に至っている。

沖縄政府としては、主客転倒、アメリカの意向に従うしかなく、

都市計画など県全体のマスタープランを考えるなど無理だったに違いない。

 

 

   沖縄は特に那覇市街地には中心核がなく、

1992年にやっと首里城が復元し往時の面影を垣間見ることができるようになった。

しかし、首里城だけで琉球王朝なり国としてみたとき、

歴史を物語るにはスタートとしてはふさわしいものであったに違いないが、

沖縄の文化の歴史の厚みを物語るにしては規模が小さく、

限定しすぎで、もっと幅広い展開が求められていた。

 

そういう時に首里城は焼失した。

 -続くー