そう言えばあの頃にも、同じようにひぐらしが鳴いていたような気がする、と男は心で呟く。
「…………」
さほど特記するほどでもない容姿の、平凡な男だと自分でも思う。
それでも、彼女は自分を覚えていてくれた。
そんな小さなことが、男には何よりも嬉しかった。
――だが。
男の目の端に掠めたモノが、綺麗な過去を一瞬のうちに塗りつぶす。
彼女の左手薬指。そこに輝く銀色の光。
男がどれだけ欲しても、決して彼女は手に入らないのだと決定づける現実がそこにあった。
いつの間にか手繰り寄せていた上掛けに、大きな皺が生まれる。
「……少し、眠ります」
「そうね。ごめんなさい長居しちゃって。一時間後には夕食だから、たくさん食べて早く元気になってね」
「はい、ありがとうございます」
そう言い残して、彼女は病室から出て行った。
ここには、『仕事』として居るだけなのだ、当然のことである。
ただ、懐かしさに足を止めて、声をかけてくれただけ。それだけの話。
男の思い出は、ひたすらに淡く遠く。
胸が締め付けられるほどの想いが、喉から溢れてこぼれ落ちそうになる。
それをなんとか飲み込んで、男はきつく瞳を閉じた。
窓の外では、沈みゆく日を惜しむかのようなひぐらしの声が、ただただ響いていた。
