実家の老親(母親)が、ある人の独演会を見に行きたいので、チケットを取ってくれと言ってきた。

オイラは、その人のことを直接見聞きしたことはなかったものの、ラジオでのやりとりが面白い人だなとは思っていたので、どれどれじゃあちょっと探してやるか、とネットを検索したのです。

 

そしたら、あぁ、確かこの人は「チケットが日本一取れない」人だと言われていた通り、発売開始当日であるのに既に予約販売は終了。

別日に先着販売するというので、じゃぁそちらに運命を委ねることにして、電話番号をスマホに登録し、リマインダーもメモしておく。

 

独演会の会場は、いわゆる下町にある劇場で、あまり知られていないところ。

実家からは結構行きにくい、わかりにくいところにあるのだけれど(そもそも新幹線に乗って東京に行かないといけない)、浅草や上野、秋葉原にも近いので、いわゆる下町地区の観光も出来そうな場所にあるようだ。でも恐らく母親の全く知らない場所だろうし、もしかしたら宿泊の手配もすることになるのかもしれない。でも、渥美二郎さんとか北野武御大、松鶴家千とせ、と縁のある街だと教えたら、この劇場へ行くことをきっと喜ぶだろうとも思う。

 

それにしてもすごい人気。

この人は確かに「毒」の具合が丁度良く、ちょいちょい突いてくる感じの人だ。わざとらしい大笑いはないけれど、くすりとさせる笑い、と言えばいいか。

例えば談志師匠のような、強烈な「猛毒」で相手を毒で満たして中毒にさせてしまう(あるいは1発目で断固拒否されるかのどちらか)ような強力さはないのだけれど、忘れた頃にチクリとするやり口は、僭越ながら修行の賜物、なかなかのものだと思う。

 

まぁでも、この人の同業者の持つ「毒」の具合は様々で、中にはオイラには受け付けられない「毒」もあるし、使い方を誤っているのに、それがウケていると勘違いしている、残念な「毒」の持ち主もいる。

例えば、談志師匠の「毒」は、主にマクラでの素人(観客)が相手。マクラは兎に角長くて、マクラをのたりのたりと続ける中で調子が出てくるのが談志師匠のスタイル。それを「長い」と文句を言う素人(客)と喧嘩をすることで高座が盛り上がる。でも裁判沙汰にしちゃっているあたりで、そもそも何をしたいのか何だかよく分からん。これも話題作りと考えればそれまでか。つまり談志師匠の「毒」は予定されたもの、話題作りのためのもの(つまり、素人相手にケンカすることであって「芸」ではない)、の印象を持っている人が多数おり、評価が割れている。ちなみに本題もめちゃくちゃ長いので、こちらも好き嫌いが分かれている(例えば「芝浜」。談志師匠とそのほかの師匠の収録時間は倍ほど違う。あれを間(ま)と言うべきか。同じ演目なのにね)。それに加えて同業他者を公然と批判したり、当時の小さん師匠にケンカをふっかけて破門されたり、米朝師匠と喧嘩別れしたり。兎に角「毒」を吐くことで耳目を惹きつけようとしていたのではないかなと思わせること多数。一生懸命なのはわかるけど、伝え方が・・・。あとお酒との付き合い方。ダメでしょ。

一方で、全く「毒」のない師匠もいる。例えば志ん朝師匠。マクラは無く、立板に水の如く、淀みなく進む本題。とはいえ声色の使い方や仕草はお見事の一言。稽古の賜物。志ん朝師匠の噺は、何度聞いても気持ち良い。喉越しの良い湧き水のよう。早世されたことが本当に残念。

それから小三治師匠。こちらもマクラが長いことで有名な人だけれども、時折ヘソを曲げて、高座に上がっても、マクラはおろか本題にも触れないまま高座を下がることが(多数)ある。でも、一言も発しないまま笑いを誘う。観客は知らないうちに小三治師匠の「毒」に侵されている。これも一つの「毒」か。至芸、あるいは稀に見る「大ヘソ曲がり」。故に人間国宝。

 

「毒」以前に、態度とか口調、身振り手振り、それからどこでどう勘違いしたのか、いつの間にか「家業」として勝手に先代から襲名している勘違い一家の人たちなどは、そもそも精神的に受け入れることが出来ない。見る気にもなれない。

古典落語が出来ず、新作落語という逃げに陥っていることにすら気づかない。戦争を新作落語の題材にするあたりで理解不能。あのね、それは「雑談」だよ、雑談。「落語」じゃないし「講談」でもない。客にお金をもらって聞かせるものでもない。「毒」以前の問題。舌が長いのか短いのか分からないけれど、全く聞き取れないし、そもそも聞く気にならない。さようなら。

 

さて、次回は電話作戦か。

古典的手法。上手く繋がるといいけど・・・