明日死ぬとしたらいま何をする?

そんな問いかけをして毎日を過ごしなさい


っていう言葉はこれまで幾度となく聞いてきた

でもきっと本当にそう思ったことがなかったんだと思う



先日、11時から始まる職場の同僚の結婚式に向かう車の中

急に


私は明日、この世からいなくなる


という感覚に陥った

それはもう何の前兆もなく

突然の感覚だった



でも心地が良かった

車の窓から見える木々が

私に対して優しいまなざしを向けているかのようで

この世界で間違いなく私が主人公であった


そして次に、話しておきたいことが次々と浮かんできた


家族、友達、教え子


あんな話やこんな話をしておきたい

私って話したいことをこんなにもまだ話せてないのだと思った


そして次の日を迎え

私は前の日に話したいと思ったことをできるかぎり伝えた


なぜあんな感覚に陥ったのだろう

誰もが経験することなのかな?


今となっては「明日死ぬ」という感覚は思い出すのが難しくなっている

だけど、あの日人生の中で初めてその感覚を味わった



難しいけど、

いつか来る人生最後の日が今日であっても悔いの残らない

そんな毎日を過ごしたい

足を洗うといっても悪いことをしていたわけではなくて・・・

昨日銭湯に行ってまた新たな感覚と出会ったんですね



いつからだろう

これまで私は風呂で体を洗うときに

足はどこか妥協していた(言い方これであってるかな?)


というのも、私の中で足はいつも地面と接していて

汚くてしょうがないもの、というような感覚があった


だから手を洗うのに比べれば

足の洗い方は比較的適当だった

(なんだかものすごく不潔な文章になってるかもしれないけど大丈夫かな?)



ところがです

銭湯で体を洗っているときにふと、

足は手と同じように扱ってあげるべきなのでは

という閃きがあった

そこで

「もし足で食べ物をつかんだり、手のように使うとしたらどれぐらい丁寧に洗うか」

を想像してみた



そう考えたらこれまでの洗い方がなんだか不潔に思えてきて

手を洗うように丁寧に洗うことにした

いてもたってもいられなく、丁寧に洗わざるを得なかったといった方が近いかもしれない



すると、風呂から上がって普段の生活をしていても

足の先までの意識が以前よりも繊細なものになっているような気がするのです

不思議な感覚



こういう感覚との出会いってまだまだあるんだろうなって思う

誰かに言われてもわからないような

自分だけの感覚



自分の感覚に素直に耳を傾けて

自分ってなんなのかを理解すること



まさか足に対する意識が

こんなにも変わるとは思わなかった



自分の体といえど、まだまだ分かり切ってないのかもしれないな


にしても

足に対する意識って、人それぞれ違うものなのだろうか?

ここ一年間くらいかな

B’zの曲を聴いていておもったこと



稲葉さんの声はエレキギターに近い声だなと

そして松本さんはもはやボーカルとも言えるギターの表現



そう考えるとB’zは声(音)の似ている二人のボーカルで成立しているのだなと

そう思うようになった



こういったら本当のファンじゃないのかもしれないけど

稲葉さんのソロをCDで聞いていても、何か物足りないんですよね


松本さんのソロ曲は好きでよく聞きます


よくB’zのふたりのうちどちらが好きかという話になるけども

ソロを聞く頻度で言ったら松本さんが好きなんだと思う



だけどB’zになったときに、稲葉さん以外のボーカルなんて考えられないし

おなじように松本さん以外のギターも考えられない


この二人のボーカルがいてこそ

B’zが好きなんだな



なんといっても、稲葉さんの声がエレキギターに聞こえる時がある!

こんなことを思うのは私だけなのかな?