大国化する危険な隣国に囲まれた我が国を守るために | 鈴木あきひろ 一言日記

大国化する危険な隣国に囲まれた我が国を守るために

 この度の中国人による尖閣海域での領海侵犯、暴力行為、及び中国国内での異様な反日暴動、敵意剥き出しの強硬姿勢、また韓国大統領の竹島上陸、国民にとって許すことの出来ない天皇陛下への謝罪要求など、我が国に向けられた一連の行動は、ここに来てどれも常軌を逸したものであります。

 しかしこうしたことは、振り返れば今に始まったことではないのです。戦後我が国が国際社会への復帰を果たし(中国は当時頑なに反対)、その後中国、韓国との国交回復の後にも、彼らは執拗に我が国へ、歴史教科書問題などの内政干渉を行い、自国の利益のために様々な要求をエスカレートさせて来ているのです。我が国が両国への過ちを認め、話し合いにより謝罪、償いを行い、両国における過去のけじめは既に終え、未来志向での友好の決意を共に誓い合っているにも拘らずなのです。

 彼らは今、国際法上また歴史的にも、一点の曇りもない我が国固有の領土である竹島、尖閣諸島の領有権を主張し(竹島は実効支配されている)、更に歴史的にも全く根拠の無い、虐殺、慰安婦問題を持ち出し、国際社会で我が国を更に貶める活動を大々的に行っております。

 こうした状況を踏まえ、今私たちは、ロシアも含め危険で厄介な隣人との未来を、真剣に考えねばならない時がやって来たことを認識しなくてはならないのです。これまでのように、「国家」としての意識が希薄でも、逆にその方が国際社会で都合が良かった平常な時ではなくなって来たことを自覚しなくてはならないのです。

○「主権国家」とは

 17世紀西洋における近代国家理論の先駆けとなったトーマス・ホッブズの代表作である「リヴァイアサン」において次のように述べられております。

 「生物一般の生命活動の根拠は、自己保存の本能であり、人間固有の将来を予見する理性(他の生物にはない)において、現在の自己保存は、未来の自己保存の予見から導かれるものである。自己保存のために、常に他者より優位に立つことが絶対的に求められる。この優位性は相対的なものであるため、際限がなく、有限な自然資源の確保のために永遠に争いが続き、『万人の万人に対する闘争』が繰り広げFられるようになる。」

 つまり自己保存のための暴力は、自己における自然権として、善悪以前のものとして肯定されていたのです。「ところで、自己保存の本能が忌避するのは死であり、とりわけ他人の暴力による死であります。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであり、ここに自然権の矛盾が生じてくるのです。そこで自己保存の理性による予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導くことになるのです。つまり自然法に従って人々は各自の自然権を国家または一人の主権者に委ねることを契約するのです。」

 このことは自己保存の放棄でも、その手段としての暴力の放棄でもなく、自然権の判断、すなわち理性に委ねることであります。ホッブスは、「主権とは、第一義的には国家理性であり、自然状態において自然法は貫徹されることはないと考えたのです。

 これが近代国家の論理であり、近代国家を構築するものであり、「主権」という概念であります。つまり国家の役割は何よりもまず、国民の生命、財産の安全確保、社会秩序の維持であり、それを実現するために要請されたものが、絶対的な権力である「主権」という概念であり、「主権者」は究極的な力を持つことになるのです。

 つまり国家とは、こうした役割を持って構成された集合体であり、その役割を果たすために「主権」という概念を欠いた「国家」は、あり得ないのです。しかし戦後のわが国は、「国家観」に「主権」という概念が全く喪失されたまま今日に至っているのです。

 それは戦勝国による戦後の日本に対する方針が、国家の弱体化にあったからであります。具体的には、GHQによる「主権国家」の概念を欠いた憲法を国家の柱に据えられ、国づくりを進めざるを得なかったことであります。そしてそれを帝国政府による弾圧により自由や権利を奪われたマスコミや知識人、またロシア(旧ソ連)や中国の影響のもとに活動していた左派勢力の者達の支持を受け、更に隣国にとっても安全保障上、我が国が「主権」を行使できないようにしておく方が都合が良いことから、政治的に憲法の見直しをされることはありませんでした。

 また、当時の焦土化した我が国において、国民が一日も早く食べていけるようになるためにも、安全保障を考えることなく、内政にだけ目を向けていられることは、政治的に大変都合が良かったのです。

 つまり国家の根本である国の安全保障(国民の生命と財産を守る)を米国に委ねることにより、ただただ富の形成と社会秩序の維持にのみ邁進することができた都合の良さから、国家としての国づくりを政治の不作為により、全く行って来なかったのです。

○「憲法」と「主権」の優位性について

 ここで整理しておかねばならないのが、政治権力の正統性のすべてを規定する「憲法」についてです。特に近代憲法では、フランス革命などで示されたように、国家権力に対して「自然権」である基本的人権を守るものとされております。また一方で生命・財産を保持することが自然権としての基本的権利の最たるものであり、、それを守るのが近代憲法であるということから、ここに2つの立場による根本的矛盾が生じます。

 特に、日本国憲法では、主権は国民に存し、その発動は国会を通してなされるとされております。そして個人の生命、財産は、それ自体として尊重されなければならないとされております。

 しかし現実において、昨年の東日本大震災において、緊急輸送道路を確保するために、それを遮る個々の家を壊してでも、押しのけてでも、一刻も早く作業に取り掛からなければなりませんでした。

 また時には、都市計画道路の整備のように、個々の財産権を規制することをしなくては、国民の福祉の向上に繋がらないということになります。

 つまり、法治主義に則った通常の社会秩序の維持が不可能になった状態、国民の生命、財産の安全が脅かされる事態、また著しく国民に不利益を与える状況において、「主権」の役割が決定的になるのであります。

 このことから、非常事態の法的秩序が欠落した日本国憲法は、社会生活が一定の秩序を保って営まれている時のみ有効な憲法であり、政治権力の正統性のすべてを規定する「憲法」として、重大な欠陥があるのです。

 「主権」を欠いた国家はあり得ず、「憲法」は国民の名のもとに付託を受けた、国家の「主権」おいて作り出されるものでなければならないのです。言い換えれば、「主権」が「憲法」を生み出し、「主権」が「憲法」を停止することもできるのです。それは「主権」という絶対的な権力が、人々の生命や財産を守るものだからであり、これが西洋近代国家の理論になっているのです。

 だからこそ私たちは、国家に対して、政治に対していい加減であってはならないのです。戦後の日本人が「主権」「主権」を連発し、「国民主権」から始まり近頃では、民主党による「地域主権」などととぼけたことを言い、一方では「憲法」「憲法」と「憲法」さえ押し頂いていれば何でもよいと思っている能天気さが、自己保存のための自然権の他国とのバランスを、著しく損なわしており、最も危険で厄介な隣国に対する隙になっていると言えるのです。

(京都大学教授 佐伯啓思著 『反・幸福論』 参照)

 最後に、平和を望まない国民はいないと思います。しかしながら相手がある平和という概念において、平和的で友好的な関係を維持、構築していくには、意識的にも体制的にも、一定の緊張関係が不可欠であります。それが国民の生命、財産を保持していくための絶対的要件として必要となってくるからであります。

 我が国は今、大きな脅威と国難に直面しております。正に国家の安全保障上、重大な局面を迎えております。しかしながら我が国は、歴史的にも大きな困難にぶつかればぶつかるほど、驚異的な力を持って乗り越えてきました。子供たちの未来に、この素晴らしい我が国を継承していくことが、私たちの責任であります。その為に今こそ、主権国家の自覚を国民一人一人が持つことが重要であります。そしてそこにこそ、今日の厳しい国際社会で生きていく力が生まれるのだと思います。