私は「感じる」という事をテーマにしています。

どこにでもある平たい言葉です。

 

刺激があるから感じるのかな?

以前は受け身だと思っていました。

 

しかし感じるというのは受け身ではなく

「感じていく」と言うとっても能動的な力なのです。

 

 

感じない人は何にも感じない・・・

同じものを見ても

感じない人は何も感じない

だからスーッと行き過ぎてしまう

 

しかし誰かは、

「アッ!これだ!」と感じるかもしれない。

 

感じた人はどうするか。

感じた人は行動し、

自らの在り方を変えようとする

 

感動とはもともと感即動

感じるから⇒即⇒行動するという事

 

人間の脳は、溢れる情報の中から

フィルターをかけて、興味のある物だけを

取り入れていると言われます

 

だからその人のフィルターによって

見える世界が違うのです

 

何が見えるか?

何に対してどう感じるか?

それが人生を決めていく・・・

そんな言い方もできるのではないでしょうか・・・

 

以前二宮尊徳の話を聞き、

感動したことを覚えています。

 

少し長いのですが、

いい話なので、読んでみてください・・・

 

感動の人生を生きる

答えにもなります・・・・

 

 

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二宮尊徳は今から200年程前、神奈川で生まれ、

北関東で活動し600以上の荒れ果てた村を再建した。

 

銅像で有名であるが、大切なのが槇と踏み出した足。

最後は本を捨てて実践の人だった。

 

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当時は江戸のバブルが崩壊した時代で、

自然災害が多発し、

栄華を極めた人々にとって不遇の時代。

 

これまでの常識が通用しない。

きれいごとが通用しない。

そんな中で道徳以上に

人を豊かにする経済を求めた人だった。


田畑の実りは自然が

与えてくれるものと思われていたが、

二宮尊徳はすべてを自然に任せたら

田畑は荒れ地になってしまう。

田畑を実らせるのは人間の努力しかないと考えた。

 

ただ私が努力するだけではだめで、

大地や太陽の力仲間たちの

力を借りないといけない、

田畑の実りは人と人、

人と自然のコラボレーション作品と考えた。


モデルと考えたのが水車と川の関係であった。

川はただ流れるが、

水車が置かれ人間との関係が生まれると

農作業を行う仲間として生き始め、

お互いを生かしあう関係になると考えた。

 

大切なのは半分従い半分逆らう事。

自然は稲や麦を実らせるが雑草だって実らせる。

だから自然に逆らうことも必要だと考えた。


冷夏、大雨、洪水にどう逆らうか?

ある夏田植えが終わった頃、

村の皆を集めて稲の苗を捨てろと言った。

 

家で漬物を食べたらナスが秋ナスの味がした。

今年は冷夏で米は実らないと考え寒さに強い、

ひえ、あわ、そば、大根を植えさせた。

 

この年からの天保の大飢饉、冷夏が来た。

米は実らずほかの村は餓死者が出たが、

この村の田畑は実った。


逆らうとはちゃんと夏が来たら、

冷夏が来なければと考えることではない。

 

水車はまず川に従わなければ回らない。

冷夏がやって来るという現実に従う事。

従うとは、相手を知る事、現実を知る事、

よく見て、受け容れる事であり、

逆らうとは、そのうえで対策を立てる、

工夫する、実践すること。


大切なのは

①メッセージを受け取ったかどうか。

②実行に移したかどうか。

である。

 

まず、秋ナスの味がした、

ジャガイモの伸び方が異常に遅い、

菊の花が咲き始めた等の小さな現実を観察し、

メッセージを受け取った。

そして対策を実行した。

 

無力な人間などいない。

無理と言うのは、無知だから道が見えないだけ。

大切なのは現実を知ると言う事。

無力と思ったなら、現実、現場を見る事。

必ず知恵が生まれる。

 

二宮尊徳は農地に行ったら

まず土を食べたと言う。

どんな作物が合うのかを見た。

 

教育、人と人のかかわりも同じで、

一度受け容れる事からスタートすればいい。

 

相手を尊重するとは知る事。

地道な現実観察をして、顔色を見て、

メッセージを受け取り、どんな声をかけるか。

 

まずは相手を知ることから対策が見つかる。

従うことを忘れた水車は回らない。

冷夏を無くすのではなく、冷夏を生かす、仲間にする。

 

稗や泡を植えたら冷夏は味方になる。

何より知ることが大切。

現実の中にしか実りは生まれない。

どんな現実も必ず実りを生む力を持っている。


農耕民族は与えられた土地を

生かすために知恵を絞って考える。

 

逆境に実りを生んでこそプロ。

震災後福島の作物が風評被害を受けた。

 

ある農家は花を作り花を咲かせた。

みんながこの花を高値で買いもとめた。

この時代でも実りは生まれるはずだと信じて考える事。


知るとは相手のための作業ではない。

自分を助け生かす作業である。

 

現実に飛び込み、相手に飛び込み、

現実を知ることは私を楽にすることだ。

 

①ヒントや手がかりは知る場所で生まれる。

答えをくれるのは目の前の相手、現実。

 

②実践するためのエネルギーは知れば湧いてくる。

知る場所で生まれる。

実践のエネルギーはワクワク、ドキドキ。

 

例えば、目の前に大きな

天にそびえる木があるとして何が見えるか?

 

ただ見るのと違い、

よく見ると何が見えるか?

 

どんな立派な木ももとは小さな苗だった。

どれだけの人が思いをかけて

この姿になったか。

 

プロセスを経て

自然のエネルギーが注がれてこの姿になった。

 

よく見た時にプロセスが見えるかどうか。

プロセスが見えれば

もっと楽しくワクワクできるのでは。

 

この世界にあるものはドラマ(プロセス)を経て

この世界に生まれた。

 

まして人間一人一人は

多くのドラマを越えてきた。

 

たかが○○と言うような事にも、

命を懸けた人々のドラマが込められている。

 

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二宮尊徳はこのドラマの事を徳と言った。

徳とは苦しさ、辛さ、逆境等全てを含んだドラマ。

 

あらゆるものが徳を持っていて、

ここにあるのはそれを乗り越えた証。

 

本当にどこかで誰かが投げ出したものは、

今ここには存在しない。

 

存在しているものはすべてドラマを持っている。

それを見ることが現実を見ることで、

ある日突然こうなったのではない。


二宮尊徳が説いた報徳とはどういう事か?

GIVE AND TAKE 

持ちつ持たれつと言う言葉があるが、

これは人を貧しくする。

 

突き詰めれば見返り思想である。

幸せになるために今は我慢しよう。

いつか幸せになろうという

見返り思想では幸せはやってこない。


大切なのは

TAKE AND GIVE と言う考え方。

 

水車は川の力を受け取っている。

何気ない暮らしの中に

どれだけたくさんのものを受けて

この生活が成立しているか。

 

受け取ったもの、今ある幸せを感じることから、

幸せでお腹が一杯になってから、

幸せだから頑張ろうと言う

エネルギーが生まれてくる。

 

幸せはゴールにあるのではなく、

幸せは原動力でエネルギーになるもの。

 

報徳とは、徳に報いるのは、

徳を受けて生活が成り立っているから

その徳に報いようと言う事。


まず水車の下半分は川の水を受け

心を耕し実らせる場所。

 

どれだけ自分の幸せを知っているか、

仲間を知っているか、

それが心を豊かにし、力の源になる。

 

心田を実らせる場所である。

現実を見て自分が幸せだと感じられた時、

自分の現場で実践して返そうと思うのではないか。

 

それが二宮尊徳の場合は、

与えられた田畑を耕し、

実りをもたらす事であった。


松下幸之助さんは、面接で

「あなたは運がいいですか?」と質問し

「はい、運がいいです」と言う即答を求めた。

 

今ここまで一人で来たのでないことを知っているか、

あなたは愛された存在だと知っていますか?

それを社会に対しての恩返しとして

仕事への実践に向かってくれますか?

報徳に向かってくれますか?

と言う事が聞きたかったのだろう。

 

受けたものを恩返しする。

報徳とはそんな思いで働くこと。


TAKEの達人になる、

幸せ探しの達人になる事。

言い換えればありがたさに気付くこと。

 

TAKR AND GIVE の特徴は、

①人間が本当の誇り歓びを感じられるのは何か?

受けることは幸福ではあるが、

誰かに幸福や幸せを与えられた時。

現実に実りを生み出すことができるのは、

TAKEも幸福だけどGIVEできれば幸福になれる。

GIVEした時に人としての歓びを味わえる。

 

②だからこそ実践、一人一人が主役である。

自らの力を最大限生かして生きる事である。

 

③全てが未来に向かっている。

水車が戻ってくる時、川は明日の川になっている。

受けたものを次の誰かへ、将来世代へ返して行こう。

恩返し恩送り。

 

生きているのはよく見れば奇跡の連続、

心田の実りとはありがとう探しの達人になる事。

有り難うの反対は当たり前、

感謝は幸せの呼び水である。