小田原城をちょこっと見学し、小田原城址公園内にある報徳二宮神社の駐車場に戻り、薪を背負い歩きながら本を読む少年を祀る神社へと向かいます。あし あし あし

 

報徳二宮神社

小田原の偉人であり、学問の神様である二宮尊徳(二宮金次郎)を祀る由緒正しき神社なのでありますよ。二宮尊徳は報徳社を設立し、農村の救済、教化運動を行っていたのですが、尊徳が1856年(安政3年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東、東海地方を中心に活動を行っていたのです。1891年(明治24年)尊徳に従四位が送られ、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起こり、1894年(明治27年)尊徳の生地である小田原の小田原城址内に創建されたのです。

 

報徳二宮神社マップ

 

一の鳥居からちょいと歩き

石段を上がるとまた鳥居があり潜ると左側に・・・

 

二宮尊徳像

兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家、南部 祥雲に依頼作成された10体の内の1体とか。


雨が降っているから緑が映えますね・・・

さらに歩くと・・・

 

手水舎

まずは参拝前に身を清めます

 

手水舎で清めた後はさらに進みますよ

この鳥居の左側には・・・

 

二宮金次郎像

戦前(第二次世界大戦)にはどこの小学校にもこの二宮金次郎像はあったそうなんですよね。なんでも当時の国が金次郎の勤勉、倹約の精神を教育の象徴としたかったためとらしいのですがね。されど現在に至っては全国の小学校で、老朽化や立て直しなどに伴い、二宮金次郎像が撤去されているといいます。というのは二宮金次郎像は、時代にそぐわなくなったという理由のようです。「児童の教育方針にそぐわない」「こどもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「歩いて本を読むのは危険」という保護者からの声があるそうなのです。まぁ、時代の流れがそうさせたかもしれませんね。

 

薪を背負って歩きながら本を読む金次郎の姿が初めて登場したのは1891年(明治24年)に出版された小説家、幸田露伴の「二宮尊徳翁」という本の挿絵。

左から2番目が幸田露伴

 

挿絵

1928年(昭和3年)、昭和天皇即位御大礼記念として神戸の中村直吉により寄進されたブロンズ像なのです。

 

昭和天皇と光淳皇后

製作者は三代目慶寺丹長で、これと同じ像は全国の小学校に向けて約一千体も制作されたのですが、戦時中の金属回収令、そうです金属供出運動に遇いてしまい、現在残っているのは、この一体だけになったそうなのです。この像は当時のメートル法普及を反映してちょうど1メートルの高さに製作されているそうですよ・・

 

神池

鯉が泳いでいるので餌をあげることが出来るそうですよ

 

パワースポットにもなっており、学業成就、商売繫盛、災難厄除、開運出世にご利益があるそうなので、一度訪れてみて下さい・・・

 

二宮尊徳


1787~1856

江戸後期の農政家で農村復興の指導者。通称は金次郎。相模国栢山(かやま)村出身。早くに父母を失い、伯父の家を手伝いながら学問に励み、のちに家を再興。その後、小田原藩士服部家の再建や小田原藩領下野国桜町領の農村復興に成功。これらの経験をもとに報徳仕法と呼ばれる独自の農村改良対策をもって小田原の他、烏山、下館、相馬各藩の疲弊した農村約600村を再建した。幕末の1853年(嘉永6年)には日光神領の立て直しに取り掛かかり、奔走中に病死した。

 

現在は座った金次郎像があるようですよ・・・(笑)