仙石原の宿泊先をチェックアウトして小田原へ向かい、土産を購入した序でに観光をちょっとだけして帰路につきます。

 

報徳二宮神社のコインパーキングに停め、報徳二宮神社へ行く前に難攻不落の名城を

ちょっとだけ見てきました。ほんのちょっとだけ・・・

 

小田原城案内マップ

報徳二宮神社に車を停め、南入り口から向かいます。

御茶壷曲輪

三の丸南から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられました。1688~1704年の元禄期には徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壷道中」の際に、往路で空茶壷納める「御茶壷蔵」が設けられていたことか「御茶壷曲輪」と言われたのです。

 

 御茶壷曲輪を横目に大きな門が見えてきます。本来なら正面入り口に当たる馬出土門橋から入って行くのですが、今回はジジババおじいちゃんおばあちゃん連れだったので時間に限りがあったので、敢えて断念した次第でありますよ・・・

 

江戸時代、小田原城二の丸の表門で、1870年(明治3年)の小田原城廃城後、1872年(明治5年)に解体されました。

小田原城天守解体写真

案内マップの赤い点々のが正規登城ルートで、往時は大手筋にある馬出門土橋から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿、本丸、天守へと進むのですがね。

銅門

大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来しているのです。現在の銅門は1983年(昭和58年)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に1997年(平成9年)に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切り門、櫓門を組み合わせた枡形門と呼ばれており、本来の工法で復元しているそうです。

 

左方向を見上げると常盤木門が見えます

 

常盤木門に通じる橋の上で新郎新婦が写真撮影をしていました。

 

橋を渡り常盤木門へ

 

常盤木門

本丸の正門に当たり、重要防御拠点であったため、堅固に造られたそうですよ。なんでも門の傍らに立つ松(常盤木)に因んで、小田原城の永久不変の繁栄を願って常盤木という名がついたとか・・・

常盤木門

古絵地図などの記録から、江戸時代初期からあったようです。1703年(元禄16年)の大地震で崩壊した後、1706年(宝永3年)に多聞櫓、渡り櫓から構成された桝形門形式で再建されたのですが、1870年(明治3年)に廃城になるまでその姿はあったそうなのです。現在の常盤木門は明治初期に撮影された写真などを参考に復興し、1971年(昭和46年)に完成したのです。

 

常盤木門を潜ると本丸に入り、天守が・・・

 

小田原城天守

 

天守閣は、3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート像、延べ床面積1822㎡

天守再建中写真 松井建設の看板が出ていますね。

 そうそう、小田原城周辺にあまり高い建物がないのがちょっと不思議だったのですが、2006年(平成18年)小田原市では、天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣を超える建物の建築制限し、歴史景観を温存するということになっているようです。

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年数は定かではないのですが、15世紀の中頃ではないかと言われています。

北条早雲

15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代、約100年に亘って関東で勢力を拡大していったのです。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大になったのです。されど、1590年(天正18年)、石垣山一夜城の築城を始めとする豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡、戦国時代が終焉を迎えました。

豊臣秀吉

北条氏滅亡後、徳川家康に従い小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏が改易(山口重政が幕府の許可なく大久保忠隣の養女を子の重信に娶らせたとして改易)にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入場の際に再整備され、城の姿は一新されました。

1686年(貞亨3年)、再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至ったのでありますよ。

 

 

日本の名城、小田原城、あなたも一度訪れてみて下さい。

今度はゆっくり散策したいものです。<(_ _)>

ほんのちょっとの小田原城散策

 

本来なら小田原城は歴史的価値があるのではなかったかと小太郎は思ったのですが

明治政府は認めなかったから天守を解体したのでしょうね。非常に残念ですよね!

 

そうそう、なんで明治時代に色々な城が廃城になったのか不思議でならなかったのですが、廃城令は明治政府が近代国家の体制を整える過程で発布した法令なのだそうです。江戸時代までに全国各地に存在した城郭を軍事的、政治的に不要なものとしてはきすることにあったのです。廃藩置県により解体され、城の軍事的役割が無くなってしまい、藩庁となっていた城はこれにより事実上役目を終えたのです。そして、徴兵令により近代的な軍隊の育成が進められ、西洋式の軍隊が導入されたことで城が不要になってしまったのですね。

廃城令 太政官布告第16号として発布されました。

・全国の城郭を軍事的、政治的に不要なものとし、破却する。

・但し、歴史的、文化価値のある城は、史跡やめいしょうとして保存する。

・破却された城の石垣の石材は、他の建設事業に利用することができる。

 

ただ城郭も何でもかんでも城郭を温存するのはどうかと思いますよね。藩の財政難で城の補修費用が出せずできなかったり、城主の血筋が途絶えて主が不在の城は荒廃して近づくのも危険な城も多々あったようで、こういった城を一斉処分する狙いもあったようですね。