前回紹介した浅草寺を参拝後、まだまだランチには時間があるので浅草寺境内隣にある神社に久々に行ってみました。浅草寺の隣なのに何故だか海外の観光客の足は殆ど浅草寺に気を取られてまばらでした。こちらも浅草寺と一緒に訪ねて欲しいよね。

 それは浅草寺本堂の東隣にある神社で、通称、三社権現とか三社様と呼ばれているのだそうですよ。

 

浅草神社境内案内図

浅草神社

 浅草寺本堂の東隣りにある神社なのですよ。通称、三社権現または三社様と呼ばれるのだそうですよ。なんでも江戸時代以前は浅草寺と一体になっていたそうなのですが、明治初期の神仏分離の法令発布発令後に浅草寺と別になり、1868年(明治元年)に三社権現社になり、1872年(明治5年)に浅草神社と改称したのです。面倒臭いね・・・(笑)

 

鳥居を潜り、右手には・・・

神楽殿

 

左手には・・・

手水舎

 

龍の口からチョロチョロと聖水がでていました。まずは清めてっと・・・

 

参道を前に左右に狛犬が見えま~す

やはり参拝客は少ないでしょ、海外ツアー団体の方々もガイドさんがチラッと説明しているようですがスル~同然でしたから、ちょっと寂しい限りですね・・・

 

そうそう、おかっぱ頭の狛犬は参道を挟み向き合って、外部からの厄災を退ける役割があるんですよね。ちょっと愛嬌がある顔をしてますよね・・・(笑)

 

拝殿

 628年(推古天皇36年)に浅草寺の御本尊聖観世音菩薩を感得した檜前浜成、竹成兄弟と私邸を寺として御本尊をお迎えした土師中知の三人を祀るところから「三社」と呼ばれたとのこと。というわけでこの三人が御祭神の三神で、浅草の総鎮守として崇めれれているのだそうです。

さて、参拝

二拝二拍手一拝

当日は、拝殿の中で巫女さんが作法を教えてもらっていましたよ・・・

 

この社殿は1649年(慶安2年)、徳川幕府三代将軍、徳川家光が寄進し、1951年(昭和26年)国の重要文化財に指定され、1996年(平成8年)に修理が行われ昔の色彩に蘇ったとか・・・

 

 お~っと、もうひとつ忘れちゃいけないのが、浅草神社の裏方にある稲荷社なんだよ。

ここは、海外の観光客もほとんど訪れませんが、歴史上の人物が関わっているので紹介しますよ!

その稲荷社は浅草神社の境内社にあり、浅草神社の本殿に向かって右奥にあるのです。

被官稲荷神社

この扁額に狐のデザインが施されていますから、行った時に確認してくださいね。

 

鳥居の足元には「新門辰五郎」と彫られています

ここまでくると更に人気がなくなり、訪れる人もチラホラ程度で見逃す方が多いかもしれませんね

 


 当日も一組の方しかいらっしゃいませんでした

その昔、幕末の江戸町火消し重番組組頭で侠客であった新門辰五郎という親分がいました。実在の人物なので、幕末の時代劇にによく出てきますよね。

時は1854年(安政元年)、今から170年前のこと、新門辰五郎の妻が病気になり、辰五郎は京都の伏見稲荷大社で妻のために祈りました。伏見稲荷大社は、稲荷神社の総本宮ですよね。

 この社殿は1855年(安政2年)に建てられ、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲からも免れた貴重な建物なのですよ。

 

被官稲荷神社の主祭神は倉稲魂命で、穀物、農業そして芸能の神様

なんでも立身出世にご利益があるらしいんだよね

そのかいあって、辰五郎の妻が快復したため、辰五郎は伏見稲荷大社の稲荷神を勧請したそうなのが被官稲荷神社の始まりとか。そうそう、勧請っていうのは神様、仏様の分霊を他の場所で祀ることを言うんだよ。

では、ここも参拝・・・小太郎はとうに定年しているから立身出世は縁遠いけれどね・・・(爆)

そして社殿の左側には・・・

お姿(鉄砲きつね)を祀る祠があります

 

きつねの形をした今戸焼の土人形で、雄と雌の対になっているそうで、この鉄砲きつねをお姿と呼ぶのだそうです。なんでこんなところにきつねの祠があるのかなと思ったのですが、この神社にお参りをして願いが叶った人が鉄砲きつねのお姿を納めるのだそうです。なんでも浅草神社の社務所でお姿を買い、買った後は一度持ち帰り、願いが叶ったら被官稲荷神社に納めるのだそうです。もちろん、持ち帰らないで納めるのもありだそうですよ。

新門辰五郎が勧請した被官稲荷神社も浅草寺に行ったら、

こちらにも立ち寄ってください。

 

そうそう、新門辰五郎のことをちょっと・・・

新門辰五郎

1800~1875

よく「暴れん坊将軍」で8代将軍時代にも芝の辺りを担っていた火消の「め組」頭取で実在の人物の辰五郎とは別人なのであしからず・・・

辰五郎は下谷山崎町の煙管師の子として生れ、幼少の頃、父親の留守中に自宅から出火し、周辺類焼してしまい、父親は世間に申し訳ないと燃え盛る火の中に入り投身自殺してしまった。それがきっかけで子供ごころに「火事こそ親の仇」と思うようになり、18歳の時に町火消「を組」の頭、町田仁右衛門のもとに身を寄せて火消しになったのです。

1857年(安政4年)、浅草花川戸から出た火が次々と寺院を呑み込み、ははてさて武家屋敷まで火の手は伸びていき、消し口を取った辰五郎は屋根の上に纏いを立てると立花将監のお抱え火消しと喧嘩になり、単身立花将監屋敷に乗り込み「さぁ、下手人は俺だ、殺すなと生かすなと勝手にしろ」と玄関に座り込んだ。この剣幕に立花側は手が出せなかったというのですよ。

 

このようなことで頭に気に入られ、一人娘と養子縁組させて、跡目を譲り、辰五郎が頭となったのです。

それと徳川幕府最後の十五代将軍、徳川慶喜の側室に辰五郎の娘の芳がいます。

徳川慶喜

慶喜と辰五郎を結びつけたのは上野寛永寺の大慈院(後に慶喜が蟄居謹慎した場所ですよね)の別当覚王院義観(幕末の天台宗の僧侶)なのです。大慈院には慶喜が謹慎していた「葵の間」という部屋があり、以前は予約にて見学出来たのですが、コロナ渦から休止されています。予約も中々取れないレアな見学なので、早く再開して欲しいものです。義観は、浅草一帯に顔が利く辰五郎に東叡山の管轄下にある浅草寺境内の掃除方を依頼したのだそうです。なんでも掃除方とは浅草寺境内の風紀衛生の取締役で、大道商人や香具師などに大して絶大な権限を持っていたというんですよ。

そうそう、何故、新門辰五郎と呼ばれるかというと、輪王寺の舜仁准后が浅草寺に隠居して新門を作った際に、養父の町田仁右衛門がその新門ら来ているのだそうですよ。

 

左が新村 信   右が中根 幸
因みに京都時代の慶喜の側室は、慶喜が静岡で謹慎の溶けた段階でみな顔を揃えたらしいのですが、側室はお信とお幸の2人だけを残し、みな暇を与えられたと言います。手切れ金を幾ら頂戴したのか分かりませんが、慶喜の側室、辰五郎の娘、お芳は暇を出されてからどのように生きたのか、何歳で何処で亡くなったのかは一切分かっていないそうです。

 

とまぁ、ここに歴史ありってとこですかね。

とにかく、浅草寺の参拝に合わせて浅草神社と被官稲荷神社にお立ち寄りを・・・