もう整理していなかったので、めっちゃめちゃ写真のストックが溜まってしまいました・・・あせるあせるあせる とにかく眠っている写真を掘り起こし、最近の写真と織り交ぜてアップしたいと思います。ってことで季節が前後し、ちょっと古いものになってしまいますがご容赦、ご容赦・・・<(_ _)>

 

今回は横浜の旅の時の事、横浜港大桟橋に行こうということになり、宿泊先ホテルニューグランドから出発し、山下公園を抜けて行くコース・・・本当は通り過ぎただけなのですがね・・・(笑)

ホテルニューグランドの対面が山下公園でやんすよ・・・

 そうそう、この山下公園って関東大震災の瓦礫で埋め立てられているのってしってました? 何といってもベイブリッジや港を行き交う船の眺めがロマンチックな眺めだと言われる横浜でもっとも有名な場所ですよね。

 

山下公園簡単マップ

山下公園の中には色々見どころが沢山あるけれど今回は3ケ所だけの紹介・・・

 

え~っ、これが灯台だったの・・・(驚)!

山下公園から見える横浜マリンタワー

1961年(昭和36年)、横浜開港100周年記念事業として建立された横浜港のシンボル的タワーで、当時は最も高い灯台だったんだそうです。全長106メートル 2008年(平成20年)に灯台としての役割を終えたのだとか・・・実は60年以上生きてきて知らなかった・・・

 

さて、公園前から入り海沿いを歩いて横浜大桟橋へと向かいます

とにかく色々見るところがあるのですが、こんかいは2か所紹介しま~す

まずは山下公園に来たら必ず目にする・・・

氷川丸

 1953年(昭和28年)に貨客船としてシアトル航路に復帰し、船齢30年に達した為、1960年(昭和35年)に引退して、生まれ故郷のこの地へ係留されました

1930年(昭和5年)に三菱重工横浜造船所において建造され、北太平洋を横断する客船として活躍し、第二次世界大戦の戦時中は病院船として使用され、終戦後の復員輸送にも携わったそうなのです。

 

病院船として活躍した氷川丸

 戦前の日本で建造された現存する唯一の貨客船で、当時の造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として2016年(平成28年)に重要文化財に指定されています。 

そうそう、船内見学できるけれど有料、無料ではないのでご注意願います<(_ _)>

 

 旅客機が一般的になる前、船は唯一の交通手段だった当時、著名人が乗船していますよ!

①映画「街の灯」の完成後、日本に観光で訪れていたチャーリー・チャップリンが1932年(昭和7年)、日本観光後、横浜よりシアトルまで乗船したそうです。この時、チャップリンが天ぷらが好物ということで、船で天ぷらを供したといいます

チャーリー・チャップリン

 

②1937年(昭和12年)、イギリス国王、ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮親王夫妻が帰国の際、カナダのビクトリア港から横浜まで乗船しました

秩父宮雍仁親王と勢津子妃

秩父宮親王は昭和天皇の弟君(大正天皇の次男)

 

戴冠式のジョージ6世(右)、中央の女の子はエリザベスⅡ世

 

③1938年(昭和13年)、講道館柔道の創始者、加納治五郎は、カイロで開かれたIOC総会に出席し、柔道普及活動を行い、氷川丸で帰国途中、船上で死去したそうです

加納治五郎

横浜に着いてから氷川丸からオリンピック旗をかけられ加納治五郎の棺が下船する一コマ

 

小太郎、氷川丸と共に・・・ちゃんと山下公園に行っているから、心配ご無用!

 

この氷川丸の右脇に小さい灯台があるのが分かりますか?

恐らくほとんど気づかれていない灯台と思います。

旧横浜東水堤灯台

山下公園の氷川丸を係留する特設桟橋先端に移設された明治時代の灯台なのです

横浜が貿易として発展する為に築かれた航路を進む船へ港の入口を防波堤示す灯台なのです

横浜上水道建設で活躍したイギリス人技師、ヘンリー・スペンサー・パーマーの設計で1896年(明治29年)5月完成した内防波堤の突端に築かれたものが役目を終えて、記念灯台として移設保存されたんですよ

ヘンリー・スペンサー・パーマー

幾度となく山下公園には行っているのですが、気にも留めていなかったので新鮮に感じました。ここに歴史ありですな・・・(笑)

神奈川県横浜市、山下公園の氷川丸を係留する特設桟橋先端に移設保存される明治時代の灯台が旧横浜東水堤灯台。して横浜港北水堤の先端に建つ赤灯台とともに建設されたもので、こちらは白灯台。横浜港内防波堤突端に建つ紅白灯台の1基だったもの。

 

氷川丸から大桟橋が見えま~す

 

さて、大桟橋に向かいますよ

 

おっと、もうひとつ紹介したいものが・・・

赤い靴を履いた女の子像

この像を見ると横浜を必ず思い出し、この童謡が思い浮かべます

この像には実在の人物がいたのだそうですよ。童謡「赤い靴」も実話を題材に書かれたという説があり、野口雨情、作詞 本居長世、作曲。

 

赤い靴 はいてた女の子異人さんに つれられて行っちゃった。
横浜の 埠頭(はとば)から船に乗って異人さんにつれられて行っちゃった。
今では 青い目になっちゃって異人さんのお国にいるんだろう
赤い靴 見るたび考える
異人さんに逢うたび考える

野口雨情(左) 本居長世(右)

時は1904年(明治37年)7月15日、静岡県清水市宮加三(旧ニ見村)に生れた「岩崎きみ」がその実在の人物とされるんだね。

母の岩崎かよときみは、訳あって北海道に渡るが、この地でかよは、まだ2歳になったばかりの我が子を函館の教会アメリカ人宣教師、チャールス・ヒュエット夫妻にその養育を託す定めとなりました。

ヒュエット夫妻

 やがてヒュエット夫妻には帰国が命ぜられ、この時、きみは不治の病(結核)に侵されており、夫妻は已む無く、きみを孤児院に残して旅立ってしまいます。きみは病の床にあり、わずか9歳の短い生涯を終えます。きみは、青山墓地、鳥居教会の共同墓地に眠っています。一方、母かよは娘の死を知らず、ヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せな暮らしをしていると信じ、1948年(昭和23年)、「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残し、64歳で他界したそうです

 

 叶わなかったアメリカの暮らしを夢見て遠く海を見詰めるように銅像が1979年(昭和54年)に建てられました。なんでもこの幸薄い母子の思いを寄せ、「きみ」にゆかりのある地にあわせ、4か所に像が建てられており、ここ山下公園の像もそのひとつ

 

 大道芸やらなにやらやっていましたが、そこはスル~して大桟橋へと向かう小太郎でした・・・

お後が宜しい様で・・・<(_ _)>