今日は、あの「忠臣蔵」をベースにコミカルに製作された「身代わり忠臣蔵」を観てきました。なんと、同名小説をムロツヨシ主演での映画化したものなのですよ

 それと後半は、歴史探訪してきた本物の大石内蔵助、浅野内匠頭が眠る「泉岳寺」のことを綴っているので、興味のある方は覗いて行ってください・・・(笑)

これは映画のポスター

MOVIX川口

久々に行ったらスナック関係はタッチパネル注文方式に変っておりましたよ。

人手不足が、ここにも感じられますね・・・確かにスタッフの人数が減っていました

 

映画が上映される大分前に既に文庫本にて読んじゃっていました・・・

本自体も面白い!

 

はい、ちゃんと観てきましたよ。

 

 さて、時は徳川5代将軍、徳川綱吉の時の事でございますよ。嫌われ者の高家筆頭の旗本、吉良上野介から陰湿なイジメに耐えかねた赤穂藩主、浅野内匠頭が、江戸城内で吉良上野介に斬りかかった。浅野内匠頭は当然殿中での出来事にて当然切腹になったが、斬られた吉良上野介も逃げ傷で瀕死の状態に陥っていた。逃げて死んだとなれば武士の恥、お家取り潰しも免れない行為なのだ。

 

 そこで吉良家家臣の提案より、上野介に瓜二つで、たまたま金の無心に来ていた生臭坊主の末弟、孝証を替え玉にして幕府を出し抜こうという作戦を実行することに・・・。一方切腹した赤穂藩主、浅野内匠頭の家臣で家老の大石内蔵助も本音を言えば、勝手に死んだ主君の為に討ち入りなどしたくないのだが、世間がそれを許さない。偽もの吉良上野介と不忠の大石内蔵助が繰り広げるコミカルムービーでした

 後は観てのお楽しみ~

そうそう、「泉岳寺」を知っている方は最後の方でちょいと違和感があると思いますので、あしからず・・・<(_ _)>

 

さて、ここからは史実に基づいた忠臣蔵にて、興味のある方は寄って行ってくださいね・・・<(_ _)>
 

 時は元禄15年12月14日(1703年1月30日)、主君・浅野内匠頭の仇討ちに、大石内蔵助が率いる赤穂浪士47名は、吉良上野介の屋敷に討ち入りを行いましたね。もうお分かりですよね。
 
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忠臣蔵
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吉良邸跡です
 ほゞほゞマンションや住宅が建っており、気が付かないとスルーしてしまうところにあります。 すぐ近くには勝海舟の生誕の地の碑がありますよ。
 
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 元赤穂藩家老の大石内蔵助良雄が率いる、赤穂浪士の総勢47名が、鎖帷子と鉢金などで完全武装して、本所深川(現在の墨田区両国)の吉良上野介義央の屋敷に夜討ちをかけ仇討の本懐を遂げた日ですよね。
 
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浅野内匠頭長矩
 
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吉良義央(吉良上野介)
 
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現皇居内にある旧江戸城 松之廊下跡です
この石碑も小さいので気が付かないでスルーしてしまうようなところにありますよ。
 
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 そもそも、元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸の大廊下(通称松の廊下)で、年賀の返礼に訪城した勅使を饗応していた赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、上役の吉良上野介を斬り付けたという、一大事件に端を発しています。何があったかは本人の口から証言が取れていないようで諸説あるのではっきりしていないそうです。
 
まぁ、そんなこんなで赤穂浪士と浅野長矩が葬られている寺に行ってきました。
 
都営浅草線:泉岳寺駅(A2出口)から徒歩約200メートルのところに門が見えてきます。
 
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泉岳寺
 萬松山泉岳寺は、慶長17年(1612年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山となしました。曹洞宗の寺院です。寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興が滞っていたので毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来たそうなのです。浅野家はその時からの付き合いだったんだそうです。
 
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中門
 泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったそうですが、現在は中門と山門のみが残っていません。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたものだそうです。
 
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「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書
 
中門を潜り右手側に・・・
 
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大石内蔵助吉雄 銅像
 
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 この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。説明看板に記載されていました。
 
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大石内蔵助
 
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山門
 天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書
 
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本堂
 本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日再建されたそうです。
 
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 正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指すそうです。

 
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主税桜
大石内蔵助の子息、大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅
 
では、赤穂義士墓所へ
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赤穂義士墓所
 時は元禄15年(1702年)12月14日夜、江戸本所に高家肝煎りの吉良義央(吉良上野介)の首級をあげ主君の仇を討った大石良雄(大石内蔵助)以下46人の討ち入りをいいます。討ち入りの際に脱落した寺坂吉右衛門を加え、一般に四十七士と言っているのです。前年3月、赤穂藩主、浅野内匠頭長矩は、勅使書下向の際の接待役となったのですが、幕府の儀礼担当職にあった吉良上野介えを江戸城中「松の廊下」で刃傷に及んだ為、所領を没収され、即日切腹を命じられたという誠に以って片手落ちな処罰だったんですね。それもそのはず、吉良上野介はお役御免のみだけでお咎めなしですからね。浅野側の正当性を全く認めようとしない幕府の処置を不服とする家老、大石内蔵助を首領とする家臣らは、亡君の仇敵、吉良上野介を急進派と長矩の弟である浅野大学をたてて浅野家を再興し、名誉を回復しようとした大石内蔵助らとに二分されてしまったのです。しかし、浅野家再興の望みが立たれた為、大石内蔵助らは急進派に合流し、吉良邸に討ち入ったんですね。
 この事件については、室鳩巣、荻生徂徠、佐藤直方ら当時の学者の間で是非論が揚がったのですが、幕府は翌1703年2月、全員に切腹を命じたのでした。これが「忠臣蔵」なのです。
 
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水琴窟
 水琴窟(すいきんくつ)は、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けです。
 
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瑶池梅
義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したもの
 
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血染めの梅、血染めの石
 浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石

 

 
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首洗い井戸
 四十七士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」
 
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義士墓入口
浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの

 

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中に入ると墓に供える線香売っていました。

 

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赤穂義士見取り図
 
 
あれっ、何だか数が合わない・・・四十八士の墓があるではないですか。
 
 赤穂浪士らは、4家の大名家に身柄を預けられ、その処分を待つことになりますが、処分の決まるまで、2カ月弱かかっているそうなのです。大石内蔵助を始めとした17名は肥後熊本藩の細川家下屋敷に、大石主税良金、堀部安兵衛武庸ら10名は伊豫松山藩の松平家中屋敷に、そして長府藩の毛利家上屋敷に10名、岡崎藩の水野家に9名が、それぞれ預けられていました。 興味深いことに、預けられていた浪士たちの扱いが、家によってかなり異なっていた様です。水野家、細川家は、半ば英雄扱いで大変優遇した一方で、毛利家と松平家では、いちいち幕府に対応を相談して最低限の対応をしていたといわれています。
 
 時の将軍、徳川綱吉と重臣の柳沢吉保は、赤穂浪士の襲撃を仇討ちと認めたかった様ですが、相談を受けた荻生徂徠は、「吉良上野介が浅野内匠頭を殺したならば仇討ちだが、何があったにしろ、浅野が吉良を殺そうとして、赤穂浪士は主君が殺せなかった相手を殺したにすぎない」と断じ、全員の切腹が決まりました。
 
 またまたここで謎が・・・それは四家の人数を足しますと、総勢47名にうち、実は46人しかいないのです。その1人というのが寺坂吉右衛門信行で、途中、行方をくらませています。これを、浅野内匠頭、そして赤穂浪士46人の墓を守らせる密命を帯びていなくなったとも、逃げたとも言われているのですが定かではないようです。
 
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左から
 寺坂吉右衛門信行 享年83、三両二分二人扶持、足軽、吉田忠左衛門配下、唯一の生存者。寺坂の墓は慶応4年(明治元年、1868年)6月に供養の為に建てられたもの
 
水野家お預け 9名
間十次郎光興 享年26、部屋住、父は間喜兵衛、弟は間新六、吉良上野介の第一発見者
 
奥田貞右衛門行高 享年26、九石三人扶持、加東郡勘定方、養父 奥田孫大夫、近松勘六は腹違いの兄
 
矢頭右衛門七教兼 、享年18、 部屋住、仇討を前に病没した父に代わり義盟に加わり切腹
 
村松三太夫高直 享年27、 部屋住、母への孝養を捨て義盟に加わり父と共に切腹。信念の人
 
間瀬孫九郎正辰 享年23、 部屋住、間瀬久太夫の長男で従兄弟に中村勘助がいる
 
茅野和助常成 享年37、 五両三人扶持、横目付、赤穂藩へ再士官して僅か4年で凶変に遭う
 
横川勘平宗利 享年37、五両三人扶持、徒目付、討ち入り時に負傷、お軽勘平は萱野で別人
 
三村次郎左衛門包常 享年37、七石二人扶持、酒奉行兼台所役、低い士分ながら誠の武士、忠節の人
 
神崎与五郎則休 享年38、五両三人扶持、歩行目付、号は竹平で文武両道の人、義憤の人
 
 
細川家お預け 10名
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右から
吉田忠左衛門兼亮 享年64、享年64、二百石役料五十石、足軽頭兼郡奉行、寺坂吉右衛門の主で和歌に秀でる
 
原惣右衛門元辰 享年56、三百石、足軽頭、大石内蔵助を補佐する三長老の一人、討入り時に負傷
 
片岡源五右衛門高房 享年37、三百五十石、側用人兼児小姓頭、眉目秀麗、主君切腹時唯一面会した人
 
間瀬久太夫正明 享年63、二百石役料五十石、大目付、表門隊参謀、間瀬孫九郎の父
 
小野寺十内光延 享年61、百五十石役料七十石、京都留守居役、義理人情に厚く夫婦ともに歌人
 
間喜兵衛光延 享年69、百石、勝手方吟味役、間十次郎、新六の実父、裏門隊作戦参謀
 
礒貝十郎左衛門正久  享年25、百五十石、新参の物頭側用人で児小姓として仕える。利発で器用な人柄
 
堀部弥兵衛金丸 享年77、隠居料二十石(前三百石)、前江戸留守居番で子(養子)は堀部安兵衛
 
近松勘六行重 享年34、二百五十石、馬廻、忠僕甚三郎は襲撃を門外で待ち年末迄江戸に留まる
 
富森助右衛門正因 享年34、二百石、馬廻兼使番、父の没後十四歳で浅野内匠頭に仕え寵愛を受ける
 
 
 
細川家お預け 6名
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右から
大石瀬左衛門信清 享年27、百五十石、馬廻、内蔵助の曾祖父、良勝の弟で信云四百五十石の孫
 
矢田五郎右衛門助武 享年29、百五十石、馬廻、討ち入り時に火鉢で刀を折り敵の刀を奪って奮戦
 
奥田孫太夫重盛 享年57、百五十石、武具奉行(江戸定府)、前夜に切腹の稽古をしたと覚書に残る
 
赤埴源蔵重賢 享年35、二百石、馬廻、譜代、独身で徳利の別れは講談咄。下戸で寡黙な人柄
 
早水藤左衛門光堯 享年42、百五十石、馬廻、弓術は赤穂藩一、刃傷事件の第一報を赤穂に知らせる
 
潮田又之丞高教 享年35、二百石、郡奉行兼絵図奉行、山鹿素行門下、東軍流奥村無我門下
 
細川家お預け 1名
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大石内蔵助良雄
 
毛利家お預け 5名
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左から
間新六光風 享年24、浪人、間喜兵衛の二男、切腹の際、実際に腹を切った唯一の人
 
竹林唯七隆重 享年32、十五両三人扶持、馬廻、祖父は中国人、吉良上野介を捕らえた功労者
 
倉橋伝助武幸 享年34、二十石五人扶持、扶持奉行、吉良邸の探索に力を尽くした人
 
吉田沢右衛門兼定 享年29、部屋住(蔵奉行説あり)、父は吉田忠左衛門、叔父甥貝賀弥左衛門
 
岡島八十右衛門常樹 享年33、二十石五人扶持、札座勘定奉行、実兄が原惣右衛で清廉
潔白な人柄     
 

間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。

 

毛利家お預け 5名

 

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左から
小野寺幸右衛門秀富 享年28、部屋住、実兄大高源五、義父母に孝養を尽くす優と豪を備えた人
 
前原伊助宗房 享年40、十石三人扶持、江戸詰の金奉行、吉良邸前で古着屋を開業して探索
 
勝田新左衛門武堯 享年24、十五石三人扶持、札座横目、剣客、祖父の代に農民から浅野長直に仕える
 
杉野十平次次房 享年28、八両三人扶持、札座横目、剣客、浪士中では比較的裕福だった人
 
村松喜兵衛秀直 享年62、二十石五人扶持、扶持奉行(江戸詰)、長男は村松三太夫
 
松平家お預け 9名
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右から
堀部安兵衛武庸 享年34、二百石、馬廻、高田の馬場事件後に堀部家の婿養子に、仇討急進派
 
菅谷半之亟正利 享年44、百石、馬廻兼郡代、容貌魁偉と言われた人で美男説は史実と異なるらしい
 
中村勘助正辰 享年48、 百石、書物役、出身の陸奥国白河に家族を送り届けて討ち入る
 
不破数右衛門正種 享年34、元百石、元馬廻、浪人で唯一討ち入り、銭湯での働きは浪士中第一
 
木村岡右衛門貞行 享年46、百五十石、馬廻兼絵図奉行、学問好きの慎重な人柄、討ち入り時に負傷
 
岡野金右衛門包秀 享年24、部屋住(亡父二百石)、恋の絵図面取りは虚実不詳、俳号は放水
 
千馬三郎兵衛光忠 享年51、百石、馬廻、致仕手続き中に刃傷事件に遭遇。私憤を捨て忠義を貫いた人
 
貝賀弥左衛門友信 享年54、十両三人扶持、蔵奉行、吉田忠左衛門の実弟で信頼が厚かった人
 
大高源五忠雄 享年32、 二十石五人扶持、金奉行兼腰物方兼膳番元方、俳諧に通じ文武両道の人
 
萱野三平重實 享年28、實十三両三人扶持、孝か忠かで苦悩し、亡君の月命日に自宅で自殺
 
 松の廊下の刃傷事件を赤穂に急報したのは萱野三平重實でした。萱野三平重實は父と意見が相違し、討ち入りに参加出来ない事態になり、元禄15年(1702年)1月14日、あさの内匠頭の月命日に自刃したのです。その後、討ち入りををして切腹した46人と共に、その志から一緒に泉岳寺に埋葬されました。


松平家お預け1名


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大石主税
 享年16、部屋住(父 大石内蔵助)、体躯に優れ十六歳とは思えぬしっかりした人柄
         
ということで泉岳寺の墓碑は48あります!
 
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浅野内匠頭長矩の墓
 
 
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浅野内匠頭長矩奥方の墓
 
 赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになったそうです。
 
 
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本堂から山門を望んだところです
 
 
歴史って面白いですよね!
 
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浅野内匠頭長矩の墓前にて・・・