またまた遅ればせながら「京都の旅」なのですが、京都駅地下街でお昼をたべてから徳川幕府を震撼させた大政奉還が行われた「二条城」へと向かいました。

お~っと、ここで二条城の本丸御殿なのですが、訪れた当時はまだ改修工事中でしたので、現在公開されているかどうかは分かりませんが、改修中ということで見ることは出来なかったことをお詫びします<(_ _)>

また、めっちゃ長~いことになりそうなので、いつでもスル~願います<(_ _)>

 

二条城 城内案内図

二条城と言えば、1603年(慶長8年)、徳川家康が初代征夷大将軍から始まり1867年(慶応3年)、第15代将、軍徳川慶喜まで265年続いたのですが、この二条城で大政奉還が成されたので、有名ですよね

徳川家康

徳川慶喜

二条城は1601年~1603年(慶長6年~慶長8年)、徳川家康により築城され、上洛時における宿所として、京都における将軍家の儀礼を行う場所として造られたのです。

 

まずは券売所で入場券を購入し、いざ・・・

約30年ほど前に来たきりなので、城好きの小太郎にはワクワクです・・・(笑)

 

東大手門

 

 東大手門は、二条城の正門で、1662年(寛文2年)に造営されたのです。造営直後、1626年(寛永3年)の行幸の際には後水尾天皇もこの門から入場したのだそうです

第108代 後水尾天皇

城内から見た東大手門

現在の門構えとは違い、当時の門は単層、高麗門だったそうで、現在の形式は櫓門、屋根は本瓦葺きの入母屋造り、妻は本連格子、棟には鯱が飾られていますよ

 

外堀

右方向に写っているのが券売所

その左端には

東南隅櫓

城内から見た東南隅櫓

 二条城には寛永期に隅櫓が本来四隅にあったそうなのですが、1788年(天明8年)に大火があり、そのうちの二つが焼失してしまい、現在は東南隅櫓と西南隅櫓が残っており、国の重要文化財に指定されいます

 

東大手門を入ると右手に・・・お~っとお姉さんがいきなり横切ってきたぁ・・・(笑)

番所

正面19.6m、奥行き6.06mの細長い建物でありますよ

 徳川将軍が不在の際は「二条在番」と呼ばれる江戸から派遣された武士により警備されていたのだそうです。毎年2組(1組50人)が4月に交代して警備にあたったそうなんですね。なんでも全国的にも珍しい門番所の遺構とか・・・

 

番所前を抜け築地塀の向こう側に門が見えてきました

 築地塀って柱を立て板を芯として泥で塗り、柱と柱の間に横線を入れ屋根を瓦で葺いた塀なのです。写真で横に白い線を定規筋といって、皇室との関係性の深さを横線の本数で表しているそうで、5本の線が最も格式の高いものとされているのだそうです

 素晴らしい塀なのですが、維持管理が大変なのですよね・・・(笑)

 

唐門

切妻造り、檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門で、唐破風を載せた二の丸御殿唐門なのです。

 長寿を意味する「松竹梅に鶴」、縁起の良い組み合わせで長寿吉祥の象徴である「牡丹に蝶」、聖域を守護する「唐獅子」、雲を呼ぶ龍と風を起こす虎とが対峙する「龍虎対決」など豪華絢爛な彩色彫刻が目を惹きますよ!

二の丸御殿側から見た唐門

 

写真はお借りしました <(_ _)>

この門の装飾の「垂木鼻先金具」は天皇家の菊の御紋になっているの分かりますか

なんでも2013年(平成25年)の修復工事で飾金具を取り外した際に、なんと!菊の御紋の下から葵の御紋が発見されたそうなのですよ。江戸時代には徳川家の葵紋、明治時代になってその上に菊紋が重ねられたことが分かったそうなのです。

徳川のものを一切合切封印したかったのですかね・・・

小太郎、唐門前にて

1884年(明治17年)、二条城が天皇家の別荘「二条離宮」となった際に付け替えられたようなのです

徳川家光

 

唐門は、1626年(寛永3年)の後水尾天皇行幸を前に、3代将軍、徳川家光が造営を命じ、天守、行幸御殿、本丸御殿も同時期に完成したそうです


さて、唐門を潜り目の前には・・・

 二の丸御殿

 二の丸御殿は全6棟の建物からなり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造という日本建築史上重要な建築物なのですよ

二の丸御殿をパノラマ撮影してみました

 

車寄せ

正面三間、奥行き四間、軒唐破風、入母屋屋根で屋根は檜皮葺き

今でいう玄関で、牛車で中まで入れるように四半敷きになっています

 

入り口上部の欄間彫刻

 

二の丸御殿案内図

 

二の丸御殿内は一切の撮影禁止。しかし、外国人観光客はカメラ撮りまくっていました

ちょいとモラルに欠けているようでした・・・「NO PICTURE」と言ったのですがね・・・

※ ここから二条城二の丸御殿内部の写真は撮影禁止なので、画像をお借りしました。<(_ _)> 外部は小太郎が撮影

遠侍一の間、二の間、三の間

 遠侍は来殿者が控える場所で、二の丸御殿最大の建物、来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁の絵から「虎の間」と呼ばれているのです。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の権力の大きさを象徴しておりますよ

 

式台、式台の間

 式台は、将軍への用件や献上物を取り次ぐ場所。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなっており、式台の間は、老中と大名が挨拶をし、将軍への取次が行われる部屋なのです。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すめでたい植物として松が描かれています

二の丸庭園から見た式台

 

大広間 三の間

 厚さ35㎝の檜の板を両面から透かし彫りした欄間の彫刻や大広間や黒書院の柱に取り付く花熨斗形(はなのしがた)の長押金具が素晴らしいね

 

大広間一の間、二の間

 将軍と大名、公卿衆との公式の対面所になるのですね。大広間の主室になり、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなっています。対面の際は、将軍は一の間で南を向いて座し、床の間に三幅対の掛け軸を掛け、違い棚や付け書院には工芸品などを飾ったらしいです。障壁画は狩野探幽作

 

狩野探幽

二の丸庭園から見た大広間

黒書院

 江戸時代の名称は「小広間」で、大広間に次ぐ公式の場。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した部屋です。一の間、二の間は、満開の桜が目を惹くことから「桜の間」と呼ばれ、将軍が背にする松には微かに雪が載って梅の花や散りゆく桜を交えることで、季節の流れが感じられるます。襖絵は狩野探幽の弟、狩野尚信作

大政奉還図

この図は今現在は分からないけれど、小太郎の学生時代は歴史の本に出ていたね。

徳川幕府第15代将軍、徳川慶喜が黒書院で、幕府役人、家門大名に対して大政奉還の伝達を行う際の様子を描いたもの。歴史画家、邨田丹陵作

 

狩野尚信

 

白書院

 江戸時代には「御座の間」と呼ばれることから、将軍の居間と寝室があったと考えられています。一の間、二の間には名勝、西湖が描かれ、三の間には伝説や歴史上の人物が描かれています

大広間 四の間
将軍の上洛の際、武器を納めた場所と言われています。

 障壁画の「松鷹図」は、二の丸御殿でも有名で、桃山時代の様式を取り入れた壮大な障壁画なのだそうです

式台 老中の間

3部屋からなり、老中が控えていた部屋で、一の間、二の間は「芦雁図」で、三の間は「柳鷺図」です

遠侍 勅使の間

 遠侍の部屋のひとつで、朝廷からの勅使を迎えた対面所。障壁画は、檜や青楓が描かれています。折り上げ天井が何とも言えないね。

 

 この二条城二の丸御殿で警報装置の走りともいえる仕組みがあるんですよね。そうそう、廊下を歩くと「キュッキュッ」と鶯の鳴くように聞こえるため「鴬張りの廊下」と呼ばれているのです。

 その上を歩く者がいると音を発し、夜間の侵入者があれば、床鳴りによって分かる仕組みなのですね。音を発する仕掛けには、「目かすがい」という独特の金具がつかわれているのです。 まるで、築50年の家に住んでいる小太郎の家床も鴬張りのように鳴るので同じ仕掛けか・・・(笑)

 

さてさて、二の丸御殿を後にして二の丸庭園へ向かう途中

さて、ここからは小太郎の撮影・・・カメラ

釣鐘が二口置いてありました

旧京都所司代屋敷釣鐘で、幕末政変時に二条城と京都所司代屋敷の連絡に使われた鐘なのだそうですよ

 

この門を通ると二の丸庭園へ

 

ぐる~っと二の丸御殿を横目に・・・

 

二の丸庭園

 二の丸御殿の前に広がる「二の丸庭園」は二条城の築城と共に当初作庭され、三代将軍、徳川家光の時代1626年(寛永3年)後水尾天皇を迎える際に小堀遠州により現在の庭園の原型に改修されたとか。

 

 回遊式築山泉水庭園で、池泉に鶴亀の島、蓬莱島といった中の島を配している点や滝の石組から神仙蓬莱の世界を表しているといわれているのですが・・・

残念ながら・・・

 

しかしながら、当日は池の掃除で水が抜かれ見る影もな~し

めっちゃ残念・・・

 この二の丸庭園は徳川幕府8代将軍、徳川吉宗の時代に一部改修されたり、幕末には荒廃の域に達し、明治~大正の二条離宮時代に迎賓館的に植栽に手を加えられて、今の庭園の姿になったとの事です。

徳川吉宗

 この庭園は、二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿から見えるように工夫されているのだそうですよ。

 本来ならこのような庭園なのですが、池の水が抜かれていると、ちょっと間が抜けてしまいますね

 

 二の丸庭園を後にして、更に進むと南北通路の左右に桃山門、鳴子門が見えます

桃山門

南端を守った門です。

 五間一戸、側面三間、一重、入母屋造り、本瓦葺きで、1602年~1603年(慶長7年~8年)に造られ、1625年~1626年(寛永2年~3年)の改修にて現在の姿になったとか


鳴子門

南端を守った門です

脇戸付き一間門、一重、切妻造り、本瓦葺きで、こちらも桃山門同様1602年~1603年(慶長7年~8年)に造られ、1625年~1626年(寛永2年~3年)の改修にて現在の姿になったとか

 

二の丸庭園の出入り口の正面の東橋を渡ると

本丸櫓門

 本丸東櫓門といい、入母屋造り、本瓦葺きの櫓門で、1626年(寛永3年)に徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、1788年(天明8年)に起きた「天明の大火」で、唯一焼け残った以降なのだそうですよ。手前に見える橋が東橋

東橋から見た内堀

 

さぁ、本丸櫓門を潜り、本丸御殿へと向かいます

 

本丸庭園

 

 本丸造営当初の庭園は、どのようなものであったのかわかっていないそうなのです。二の丸庭園に引けを取らない庭園だったらしいのですが資料が不足している為に致し方がないようです。ただ1788年(天明8年)「天明の大火」により本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失し、庭園も延焼を免れずにしばらく空き地になっていたらしいのです

 

天守閣跡から見た本丸庭園

現在の本丸庭園は1895年(明治28年)、明治天皇が本丸に行幸された際に、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、1896年(明治29年)に完成した芝庭風築山式庭園です

明治天皇

 

本丸庭園を通ると・・・

本丸御殿

 訪問時にはまだ改修工事中だったので、見学は出来ませんでしたので外部だけ見ることで我慢・・・(笑)

 本丸は城の中心部にあり、内堀で守られた処で、3代将軍、徳川家光が1626年(寛永3年)に後水尾天皇行幸を迎える為、城の区域を広げ、新しく築いたのだそうです

本丸内に御殿が建てられたのですが、これまた1788年(天明8年)の「天明の大火」で焼失し、幕末には、15代将軍、徳川慶喜が御殿を建てたのですが、1881年(明治14年)頃、取り壊しの憂き目にあっています

 

天守閣跡から見た本丸御殿の全景

 現存する本丸御殿は、桂宮家が京都御所の北(今出川御門内)に建てた御殿の主要部を1894年(明治27年)に明治天皇の意向により移築されたものなのです。なんでも当時は、二条城が天皇家の別荘である離宮として使われていたようです。

 

 本丸御殿の正面入り口の唐破風付きの車寄せの周りには工事車両が止まっており、まだ公開には時間が掛かるのかなと思われました・・・

 

本丸庭園と本丸御殿の間を抜けて行くと「天守閣跡」行先表示があります

 

さぁ、天守閣へ上がる石段の蹴上げがちょいと高いので歩き辛い・・・

足の短い小太郎にはキツイ石段でありましたので上がるには手すりを伝っての方が安心ですよ・・・(笑)

 二条城天守台にはかつて五重六階の天守閣が建てられていたばしなのです。1602年(慶長7年)徳川幕府初代将軍、徳川家康の命により店主の建設が着工され、1606年(慶長11年)に天守が完成。

 

天守台から見た桃山門

 1624年(寛永元年)から3代将軍、徳川家光が第108代、後水尾天皇の二条城への行幸を迎えるに当たり、近江国小室藩初代藩主、小堀遠州と京都郡代、五味豊直を作事奉行として二条城の拡張、殿舎の整備を着手したそうなのです。

 

小堀遠州

天守台から見た本丸庭園

 この天守は紆余曲折あり、山城国久世郡淀(現・京都市伏見区淀本町)の淀城に移築され、一国一城令により廃城になった伏見城の天守が移築され、1626年(寛永3年)に天守閣が完成したのです

 

天守台から見た西南土蔵

かつては幕府直轄領から納められた年貢米を貯蔵する米蔵断端だとか

 

天守台から見た本丸庭園

 

天守台から見た西南隅櫓 

 東南隅櫓は、二条城のシンボル的遺構ですが、それと同様に西南隅櫓があり、1602年~1603年(慶長7年~慶長8年)に造られ、1625年~1626年(寛永2年~寛永3年)に改修工事が成されたとのこと。2重2階、西面の破風が向唐破風になっており、西と南に石落としがついた櫓なのだそうですよ。

 

天守台跡 展望台

 因みに第108代、後水尾天皇の行幸は1626年(寛永3年)10月25日から5日間に渡り行われ、天守閣に昇ったと言われています。「天守閣は天皇が唯一昇った天守閣」と言われています。しかし、残念ながら1750年(寛永3年)の落雷により焼失してしまったそうです

 

さて、本丸を出て西橋を渡ります

天守から見た西橋

西橋から見た天守台跡

 

西橋を渡り、見えてくるのが・・・

西北土蔵

 

北中仕切り門

西二の丸から見た仕切り門です

 1626年(寛永3年)3代将軍、徳川家光により造営されたもので、本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門なのです。本瓦葺きの門で、招き造り、庇付きの一間門。

なんでも徳川家康が二条城を築城した当時、この門の北に太鼓櫓があったそうで、その東に天守があったとか。

 

北中仕切り門を抜けて、清流園へと向かいます。その途中に・・・

加茂七石

 鴨川では、古くより「加茂七石」と言われる名石があり、庭石、水石などに用いられ、文人にに愛された名石なのだそうです

畚下石、紫貴船石、紅加茂石、糸掛石、畑石、鞍馬石、八瀬真黒石の七石です

 

加茂七石を横目に、結構歩いたのでちょっと清流園隣接するのでる休憩処に・・・

和樂庵 茶房 前田

お茶を一服して休憩したことは、後日投稿するので、ここはサラッと流します。

 

清流園

 

 庭石約800個などを譲り受け、さらに全国から約300個ほど集めた銘石が使われています

 城内北側には、1964年~1965年(昭和39年~40年)に新たに作られた面積約16,500㎡の清流園なのです。大きな流れを中心とする和風庭園と洋風庭園からなっているのだそうです。流れの設計は近代を代表する「昭和の小堀遠州」と称えられた造園家、中根金作らが中心になり造園したとか。

 

中根金作

香雲亭

江戸初期の京都豪商、角倉了以の屋敷から建物の一部の「香雲亭」の茶室を移築したもので、現在は非公開になっており、市民大茶会や二条城を訪れる賓客の接待で利用されるとか

角倉了以

 

清流園にはトイレがないので、この休憩所で済ませました・・・(笑)

 

休憩所から見た鳴子門と桃山門

 

清流園を後にして

北大手門

 入母屋造、本瓦葺きの櫓門で、1602年~1603年(慶長7年~慶長8年)に造られ、1625年~1626年(寛永2年~寛永3年)の改修工事で今の姿になったのなったのだそうです。この門からは出入りは出来ません

 

さて、最終コーナー・・・

土蔵を右手に見ながら左手にある・・・

 

 二条城障壁画展示収蔵館に立ち寄り見学する予定でしたが、午後4時30分を回りタイムアップ・・・(泣き)にて見ることが出来ず・・・

二の丸御殿障壁画(重要文化財)が保存されており、見れずに残念・・・

 

 東大手門まで戻り、二条城の見学は終了。ここから一度宿泊先に戻り、一息ついてから夕食先の先斗町へむかいます。この話はまた今度・・・