中々アップ出来なくて遅れ遅れの投稿になりますが、ご勘弁願います。<(_ _)>

時は昨年の9月末のこと、前回「豊国神社」、大阪の陣のキッカケとなった「方広寺梵鐘」を後にして「千手観音」で有名な寺院に向かいます。向かう途中に歴史的建造物の横を通り抜けていきます。

 

京都国立博物館 正門

 

 1895年(明治28年)明治時代に活躍した建築家、片山東熊による設計で、国の重要文化財に指定されています。

片山東熊

迎賓館や赤坂離宮等に携わっていますよ。

小太郎も建築士の端くれで超々大先輩で、足元にも及びませんがね・・・(笑)

 さらに歩き進むと大和大路七条の交差点まで来ると三十三間堂の立て札が見えてきました

三十三間堂境内案内図

普門閣

あまねく人々に門戸を開くという意味なのだそうですよ。

 

ここが拝観受付で入口になりますよ。

 

参進閣

千体千手観音立像が並ぶ本堂への参拝者の玄関口で、下足を脱ぎ本堂へ出入りする通路なのです。

 

本堂 東側

本堂が「三十三間堂」の通称で、京都駅から程近い東山区にある天台宗の寺院で、1000体を超える観音像が安置されていることで有名ですよね。

正式名称は蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」で、堂内の内陣にある柱間が33あることからそう呼ばれているのだそうですよ。本堂は南北に120mの長さ、奥行き22m、高さは16m

 

本堂 西側

 お~っと、ここから本堂内は撮影禁止なので、堂内の写真は借りものですので、ご容赦願います。本当は、この圧巻な情景をカメラカメラに納めたかったのですが残念無念またどうぞです・・・(笑)

 平安時代の988年(永延2年)に太政大臣、藤原為光が造営した私邸があった場所と言われています。その後989年に為光が妻と第65代、花山天皇の女御だった娘の菩提寺を弔うために法住寺を創建したのですが1032年(長元5年)の火災により焼失しました。 

本堂に入ると最初に現れるのが風神像(国宝)

 風神像は風袋を背負い、右膝を突き、左膝を立てています。風神は鴨の口ばしのような唇が特徴で、風を吹かせる神であり背中に背負った風袋から下界へ大風を送っています。数頭立ての馬車で天を駆けて悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神とされています。手指は3本、足指は2本。肉体はボディビルだーのように筋肉隆々ですよね。

 

千手観音立像

 1000体の観音像は正式には「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、観音が困苦の衆生を救うために「十一面と千手千眼」の姿を具備されたものなのだそうです。

 堂内は、前後10列の壇上に等身大の観音立像が1000体並んでいます。観音像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に四十手をもつ形で、造像法で作られています。

 

千手観音立像

千手観音立像の前には二十八部衆の像が並んでいます。

 1000体の中で、124体は、本堂が創建された平安期の尊像で、その他の観音像は鎌倉期に16年かけて再興された立像なのだそうです。その立像の約500体には作者名が残されており、運慶、快慶で有名な慶派、院派、円派と呼ばれる造仏に携わる集団の名前が残されているそうです。

その後、大正~昭和の修理と4度の大修理を繰り返し、2018年(平成30年)、約50年の修復を終え、1000体全てが国宝に指定されたのです。

圧巻!

目の前に千手観音が迫ってくるような雰囲気がする光景

 

千手観音座像

 本堂中央に千手観音座像があり、その左右に500体ずつ千手観音立像が安置されています。千手観音座像は、高さ355㎝、桧材の寄木造りに水晶の眼が嵌め込まれ、全身金箔が施されており、立像とはちょっと違って四十二手で、台座は八角七重の蓮華座、光背は舟形に雲形や宝樹形を透かし彫りされています。

 

本堂を進み、最後に・・・

雷神像

雷神は背中に背負った8個の太鼓をバチで叩いて雷鳴を外科医に轟かせ、髪の毛が逆立っています。仏教では、仏法を守る役目と共に、悪を懲らしめ、善を勧めて風雨を整える水神とされています。手の指は3本、足の指は2本。これまたしっかり鍛えられたボディビルダーのようですよね・・・(笑)

 

1161年(永暦2年)、後白河上皇(第77代、後白河天皇)が法住寺跡に離宮、法住寺殿を営み、三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材強力を命じ、離宮、法住寺殿の一画に創建されたのが起源なのだそうです。

 

        後白河上皇             平 清盛

 

ハイハイ、小太郎ちゃんと三十三間堂に訪れていますので、あしからず・・・(笑)

 1249年(建長元年)に焼失、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代後嵯峨天皇)が蓮華王院本堂のみを再建しました。

 

後嵯峨上皇

その後、室町幕府第6代将軍、足利義教が修復し、関白、豊臣秀吉が東山大仏(方広寺)を建立した際、土塀や門などが整備されたと言われています。

 

        足利義教              豊臣秀吉

三十三間堂の名称は間面記法「三十三間四面」に由来し、三十三は観音に縁ある数字で、法華経などによると観音菩薩が三十三種の姿に変じ、衆生を救うと説かれています。

三十三間堂の浮世絵

広縁

 

宿泊ホテルから歩きっ放しだったので、広縁でちょっと休憩・・・

 

堂内を拝観後、外に廻り庭へ向かいます。

 

東大門

門を開けると本堂正面になるのだけれど、通常は閉められているそうです。

 

本当は秀吉の建てた重要文化財の南大門も見ようと思ったのですがスケジュールの関係上スルーしてしまいました。そうそう、鐘楼も・・・

 

夜泣泉

蓮華王院本堂が建立された翌年の1165年(長寛2年)6月7日の堂僧が夢のお告げによって発見した霊泉で「古今著聞集」には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めるこのない極楽井で、どんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない泉だ」と記載されているとか。夜に水の湧き出す音が人の「すすり泣き」のように聞こえることから「夜泣きの泉」と言われるようになったそうです。

 

 いつの頃からか泉の傍らに地蔵尊が奉られ、特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとされ、地蔵様の「前掛け」を持ち帰り、子供の枕の下に敷けば「夜泣き」が治るとされ、今もそのご利益を求める参拝客がいるとか・・・

 

庭園も見事な造りです

 

これだけは見ておかないと・・・

太閤塀

木骨土造の築地塀で、高さ5.2m、桁行92mの堂々たる建造物なのです(重要文化財)「天正16年8月大ふつ殿瓦」(1588年)のヘラ書きがあり、軒平瓦には「太閤桐」の用いられていることから「太閤塀」と呼ばれるようになったとか。

 

写経奉納塔

1995年(平成7年)5月に境内の東側に建立されました。写経奉納塔は1985年(昭和60年)に罹災した南大門の修復の為に写経勧募が始められ、奉納された写経の永代供養を目的として建立されたのです。なんでも写経の奉納は現在も続けられ、毎秋に供養の法要がおこなわれているとか・・・


蓮華王院本堂前にて・・・

 

法然塔

 三十三間堂法然塔(左)には6字の名号「南無阿弥陀仏」が刻まれ、名号石とも言われているんです。

 

        御土門天皇             法然上人

「南無阿弥陀仏」は鎌倉時代前期の1204年(元久元年)に第83代、土御門天皇が後白河上皇(第77代、後白河天皇)の13回忌法要を行った際、浄土宗の宗祖、法然上人が念仏三昧行である六時礼讃を修し、人々に書き写して分け与えたと言われています。要はその事跡をを記念するものですね。

 

 

さて、三十三間堂を後にして、次なるは「東寺」へ向かいます・・・