先だって大河ドラマ「どうする家康」が終わりましたね。あまり人気がなく、大河ドラマの視聴率ではワースト2だったとか・・・

 まぁ、問題は脚本らしく、登場人物の輪郭を明瞭に描こうとするあまりに複雑化して厚みのない内容になり、奥行きが失われてしまったことが原因らしいのですがね。

とにかく視聴率を上げるのは難しいという事ですね・・・

 

 それはともかくとして、京都の旅で豊国神社を訪れた際、大河ドラマでも描かれている豊臣家滅亡のきっかけになる物的証拠を見てきました。

方広寺

 京都市東山区にある天台宗の寺で、現在の豊国神社の隣にあるのです。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として1595年(文禄4年)に創建された寺なのです。初代から4代目まで大仏が存在したそうですが度重なる焼失で現在、大仏は現存していないのです。

 さてさて、そんな方広寺、豊臣秀頼が豊臣家ゆかりの寺である方広寺を再建したとき、1614年(慶長19年)に釣り鐘が鋳造されました。

 

 秀吉追善の為という表向きの鋳造なのですが、豊臣家の財力を削ぐことが徳川家康の狙いで、豊臣秀頼に勧めて造らせたのが、この釣り鐘なのです。

 

 小太郎、ここで写真撮ってもらったのですが、ピンボケでお目に掛けられないのが残念無念・・・

 

 撞木を挟み、この鐘の上部に東福寺の僧、清韓の書いた銘文が刻まれており、その銘文の中に「国家安康」の字句があり、家康の名を分割し身を切断することを意味し、徳川家を呪詛し、「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると非難し、大仏開眼を延期させ、豊臣方を憤激させたのです。

 

欽惟 豊国神君 昔年 掌普天之下

前文 外施仁政 前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公 天子万歳 台齢千秋

銘曰 洛陽東麓 舎那道場 聳空瓊殿 横虹画梁 参差萬瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方 境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 商音永煌 響応遠近 律中宮商 十八声縵 百八声忙 夜禅昼誦 夕燈晨香 上界聞竺 遠寺知湘 東迎素月 西送斜陽 玉筍堀池 豊山降霜 告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量 所庶幾者 国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 法社金湯 英檀之徳 山高水長

慶長十九年甲寅歳孟夏十六日 大檀那正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公 奉行片桐東市正豊臣且元 冶工名護屋越前少掾菅原三昌

前住東福後住南禅文英叟清韓謹書

 

梵鐘に刻まれている文字

その文字が刻まれている部分に白く印がつけられています。

 

 清韓は徳川家・豊臣家の繁栄と四海の平和を願い「国家安康」「君臣豊楽」という文言を用い、隠し題、縁語という詩文作成上の修辞を駆使し、華やかさを増すよう努力したのですが、其れがかえって仇となってしまい、清韓は懸命に弁解をしたが、家康はそれを許さなかったのです。

 

豊臣秀頼は、この誤解を解かせようと重臣、片桐且元をつかわしたが、最初から計画的であった家康に受け入れられるはずもなく、豊臣方も硬化し、且元も大阪を退城し、1614年(慶長19年)10月の大坂冬の陣に向かってしまうのですよ。これが世にいう「方広寺鐘銘事件」なのですよ!

 

 明治時代に撮影された3代目の大仏殿と梵鐘。残念ながら1973年(昭和48年)に焼失してしまいました。梵鐘が地面に置かれているのは、明治新政府により方広寺境内の大部分が収公地にあった鐘楼が取り壊され、残った寺領に梵鐘が移設され、現在に至るとか。それでもこの梵鐘は、重要文化財に指定されているのですよ。

 

 

しかしながら、この鋳造された鐘は破却されずに現存しているから鐘銘自体に「言い掛かり」としかなかったのかと思いますね。

 

  さて、次回の京都の旅は「三十三間堂」、乞うご期待