さて、京都に行ったら寄りたい寺に行くことが叶いました。

またまた、お寺紹介がかなり長くなるのでお付き合い厳しい方はする~してくださいね。<(_ _)> あっ、そういえば「鹿嶋神宮編」もまだ作成途中やった・・・

 大和大路通りより一筋東を松原通りから少し下ったところにあるのです。

 写真を見てもわかるようように外壁に「六波羅蜜寺」と書いてあります。この「六波羅」、変わった地名ですよね。鴨川を挟んで東側、北に建仁寺付近から五条通りまでの地域のことを言うそうで、この周辺地域の寺ということで「六波羅蜜寺」になったとか。それとこの周辺には昔、「六波羅殿」という平家一門の屋敷があったそうで、平安時代後期頃より平清盛の父である平忠盛が境内に自軍を駐留させたことをきっかけに平家の拠点になり、平清盛、平重盛の頃には5200もの一門の邸宅があったのだそうですよ。

 

さぁ、ここが六波羅蜜寺の鉄門

 朝一番の8時30分に行ったので門が閉まっているのかな・・・っと思ったのですが、通常は閉めれれているそうなのです。んじゃ入れないのでは・・・ご安心あれ!境内への入口はこの門の南側あるのでした・・・(笑)

 昔々この鴨川の東側の地域は、京都の葬儀場とされた「鳥辺野」への入口にあたることから「彼岸(あの世)と此岸(この世)の境となる場所とされてきたそうなのですよ。この鳥辺野とは往古、京都では、人が亡くなると遺体を野ざらしにしてあの世に見送ったそうで、そのまま朽ち果てる風葬が主流で、遺体を鳥が啄んで処理をする風習があったのですよ。

アバウトな境内案内図

まだ拝観時間までは間があったので、境内内を散策しました。

 

六波羅弁才天

 七福神の一人である弁財天を祀るお堂です。水を司る弁天は、学問、技芸、雄弁を司る知恵の神ですよね。なんでも神仏習合により仏教を取り入れられた後は、人々に財を与え、障害となるものを取り除いてくれ、別れの悲しみや嫌なこと、辛いことも水に流し清めて下さると言われているのですよ。なんでも六波羅探題がここに設けられたことから、幕府の歴代将軍が祈願所として参拝に訪れたとか・・・

 崇徳天皇の夢告により禅海により造立されたもので、崇徳天皇が亡くなった後、寵愛されていた阿波内侍(あわのないし)が屋敷を寺とし、弁財天堂を建立し、祀っていたのだと言い伝えがあります。なんでも廃仏毀釈によって六波羅蜜寺に移されたのだそうです。

弁財天堂の奥に方丈があるのですが、関係者以外立ち入り禁止・・・

十一面観音像

 これは本尊を模したもので、空也上人が十一面観音像を刻み、荷車に乗せて当時京都に流行した悪疫退散のため、支柱を曳き廻り、青竹を八葉の運片のの如く茶を立て、中へ小梅干しと結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者を授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて、遂に病魔を鎮められたという伝説があるのです。

 

一願石

 ひとつの願い事を祈りを込めながら、金文字から手前に3回廻すと、なんと願いを叶えてくれる不思議な石なのですが、果たして・・・

欲張ってはいけませんよ!願いはひとつ・・・(笑)

 

左:平清盛の塚  右:阿古屋塚

 平清盛の墓というより供養塔といったところです。その代わり当山には重要文化財の平重盛像があるのですよ。

 阿古屋塚は、平家の残党狩りをしようとする源氏方の代官が平家の武士を恋人にもつ遊女、阿古屋を捕らえて尋問したのですが彼女は一切答えず、弾かされた箏(こと)の音にも乱れが全くなかったため、結局釈放されたという物語があるのです。

 

清盛の塚の奥には地蔵尊と山積みの地蔵が祀られています

この山積みの地蔵、表情は分からないくらい風化して表情が分からないくらいなんですよ。なんとなく赤い前掛けをしているから地蔵かなと思うのですがね。実はこの地蔵は本堂が解体修理された際に境内の発掘調査で発見されたのだそうです。

 恐らく六波羅の地は上記のように葬送の地「鳥辺野」の入口であったことに関係しているようです。まぁ、あの世とこの世の境にあたるこの場所で、先祖供養のために人々は石を刻んで作った仏様を寺に納めたのかもしれませんね。

手水鉢は綺麗ですね。このようなお寺には神が宿るといいますね。

この手水鉢の左手側に・・・

無事かえる

結構リアルなカエルカエルカエルでしょ

まだまだ本堂へは行きませんよ・・・(笑)

曹洞宗高祖 道元禅師御説法御遺蹟

 道元禅師が説法の場とした六波羅蜜寺は、市聖といわれた空也上人の開創。道元禅師を支援した波多野義重の館はこの寺の傍らにあったそうです。1243年(寛元元年)道元禅師は六波羅蜜寺で説法したと伝えられています。

なで牛

 自身の痛いところ、辛いを撫でると良くなるとか・・・ツノには触ってはいけません。折れちゃうかもしれませんからね。小太郎は今は頭が悪いので・・・(笑)

 

本堂

 1363年(貞治2年)に再建、外陣を板敷とし、蔀戸(ほうと)で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築なのですよ。豊臣秀吉により本堂を現在の向拝が附設されたんですって。1969年(昭和44年)に解体修理したそうです。

六波羅蜜寺

 醍醐天皇の第二皇子として生れ、「念仏の祖」としても知られる空也上人によって建てられました。951年(天暦5年)、当時京都では疫病が流行り、空也上人はそれを退散させようと自ら十一面観音を彫り、この仏像を曳き車に乗せて京都市中を回ったのだそうです。その際に青竹を蓮華の花びらのように八つに薄く割ったものを茶筅代わりに御茶を立て、仏様に献じてそれを病気で苦しむ人々に身分の差なく授け、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えて回り、多くの人々を救ったというのです。

このお茶というのは、お茶の中にチ佐那梅干しと昆布を入れたものなのだそうですよ。現存する空也上人の祈願分によると、963年(応和3年)、600巻の大般若経の写経を完成させて、鴨川の東岸付近に十一面観音像を本尊として西光寺というお寺を創建。600人の僧侶により経を読み上げ、夜には五つの大文字型の灯りを灯した萬燈会(まんとうえ)を行うなど供養会を行ったそうです。その後、空也上人が亡くなると弟子である中信という僧により規模が拡大し977年(貞元2年)「六波羅蜜寺と」改められて天台宗の別院として栄えたそうです。

六波羅蜜寺 本堂前にて・・・小太郎左下にチラッと

 「六波羅蜜」とは、仏教の言葉で悟りを開くために必要な六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)のことをいうのだそうですよ。

 

本堂の中は撮影NGなので、写真をお借りしました。<(_ _)>
 

 六波羅蜜寺の御本尊である「十一面観音像」は本堂の中央の厨子の中に納められているのですが、秘仏なので12年に一度の辰年にしか御開帳されないのだそうです。

来年が御開帳の年だから、その時に京都に行けば見れたなぁ~・・・(笑)

 広大な敷地であった六波羅六辻は、火災により各お堂が焼失して大幅に縮小されていくのですが、室町時代に建てられた本堂は災禍を免れて創建当時のものが今に伝わっているそうです。

そして本堂の右側に会いたかった方が・・・

空也上人像

 えっ、本物!っと思ったら、実はこの像は東京芸術大学の大学院生により作られた模刻像だったのですよ。そうですよね、重要文化財がそう簡単に触れるところに置いてあるわけがありませんね・・・(笑)

 

 なんでも空也上人像が作られたとされる鎌倉時代の作像技術、手法にこだわり、2年の歳月をかけて製作されてそうですよ。本物は後程紹介(令和館)しますがケースに入って間近に見ることが出来ないから、レプリカとはいえ近くで見ることもできて、ここだけは写真撮影OKなのが嬉しいですよね!

模刻像の制作工程について記載されています

小太郎もちゃんと空也上人にお会いしましたよ・・・(笑)

本堂を後にして銭新井弁天に会いに行きます。

水子地蔵尊像と水子永代供養の地蔵が奉納されていました。

銭洗い弁天と水掛け不動尊

水掛け不動尊

 源義経が不動尊の傍らに立つ松の木に兜をかけて戦勝を祈願したと言われ、この不動像に水を掛けて祈ると勝運を授けて貰えるらしいんですよ。

銭洗い弁天

 

 まずはざるにお金を入れ浄水にて祈念しながら洗い清めます。昔々、鎌倉の銭洗い弁天でも銭を洗い清めたのですがご利益が・・・(笑)

 

さて、銭洗い弁天でお金を洗い、いよいよ令和館にむかいます。

本堂の西側を抜けて行きますよ。

綺麗な庭を横目に向かいます。

六波羅蜜寺 令和館

 17体もの重要文化財が保管されているので入口は銀行の金庫のように分厚く厳重な造りになっています。なんでも以前の宝物館は老朽化し、2022年5月に開館したばかりなのだそうです。最新空調設備が導入された鉄筋コンクリート造の宝物館で、2階に目的である国宝、空也上人像が収められているのです。

残念ながら宝物館内は撮影NGなので、この宝物館内は写真をお借りしました。

<(_ _)>

 

まずは順路2階から見学していきます。

 空也上人像と平清盛像が角に敢えて置いてあり、側面と少し後ろが見えるように配置してあるのです。

いよいよ空也上人とご対面!

首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖を持ち、草履履きで歩く姿を現しているのです。人々を救うために行脚しながら、南無阿弥陀仏の念仏を唱えると「 南・無・阿・弥・陀・仏」の念仏六字が阿弥陀様の姿に変って口の中から現れて出てきたという奇跡を現したものなのだそうです。かなりリアルな表情でしょ!かなりインパクトがありますよね。

 この像が作られたのは、空也上人が生きた平安時代から250年近くを経た鎌倉時代初期。作者は鎌倉時代の大仏師運慶の四男、康勝(こうしょう)。像内に「僧康勝」という署名と花押が記されているそうで、康勝が20歳の頃に作られたとみられています。

平清盛座像

 これまた「空也上人像」と同じく鎌倉時代の作で、木造彩色で玉眼が入っています。間小物を開き始めたところという独特の動きのある姿勢の像ですね。

 ここに重要文化財は全17体あるので、どれも見どころがギュッと詰まっているので、じっくり鑑賞しましょう。とにかく空也上人像のインパクトは凄いので、一度見て下さい。

小太郎の目的達成です・・・(笑)

 

京都へ行こう!

 

 そうそう、ここで当たると噂の開運推命おみくじが引けるようだったのですが、貴船神社で最悪で、さらに最悪になるのを避けて引くのは止めておきました・・・