先だって30数年使ってきた庖丁がいよいよイカレテしまい合羽橋道具街に行き、新規庖丁を購入した後(合羽橋の話はまた今度)、序でに浅草寺まで足を運びました。

今回は序でなので浅草寺境内の至るとことにあるほとんどのお堂等はスルーしたのでほとんど紹介出来ませんがあしからず・・・

もう何度も紹介しているからご勘弁願いますね・・・(笑)

浅草寺境内案内図

 

 合羽橋道具街を後にかっぱ橋本通りから国際通りの公園六区入口を抜け、奥山おまいりまち通りをを歩いて浅草寺境内に入りました。いつもなら「雷門」から向かうのですが、今回は買い物があったからね・・・

 

門の脇に公衆トイレ男性トイレ女性トイレがあるから用を足しました・・・(笑)そうしないと

宝蔵門辺りまで行かないとトイレはありませんし、そちらは混んでいるので我慢できない方はここがお勧め・・・(笑)

 

本堂に行く途中お堂が沢山ありますがスル~し、本堂に参拝といきます。

境内にこんなものがありますよ。

 

鳩ポッポの歌碑

 

作曲:瀧 廉太郎  作詞:東 くめ

 

 童謡「鳩ぽっぽ」は、1900年(明治33年)、作詞家、東 くめが浅草寺の境内で鳩と戯れている子供たちに着想を得た歌詞で、滝 廉太郎が作曲。1901年(明治34年)に「幼稚園唱歌」収録されているそうです。

東 くめ

 明治~昭和初期の教育家・作詞家 1877年(明治10年)~1969年(昭和44年)

東京音楽学校(現・東京芸術大学)本科卒

東京府立第一高女を経て、東京高師付属幼稚園に勤務。1899年(明治32年)東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授、東 基吉と結婚。瀧廉太郎とともに口語体の唱歌集「幼稚園唱歌」1901年(明治34年)を編集、出版した。所収の「お正月」「鳩ぽっぽ」「水あそび」等の作詞で有名なのです。91歳で亡くなるのですが、高齢になってもかくしゃくとして90歳まで現役のピアノ教師として働いたのだそうですよ。

明治の音楽家、ピアニスト、作曲家 1879年(明治12年)~1903年(明治36年)

東京高等師範学校附属音楽学校(現・東京芸術音楽学部)卒

明治時代、日本が西洋音楽を導入し始めた頃の代表的な作曲家で、1879年(明治12年)に東京で生まれた廉太郎は、地方役人の父の仕事関係で、富山県、大分県で育ちました。子供の頃から音楽が好きで、当時としては珍しく小学校の先生にオルガンを習ったりしたが、本格的に音楽を学んだのは15歳の年で、東京音楽学校に入学してからの頃とか。廉太郎は、音楽学校でピアノや作曲にめきめきと才能を発揮し、21歳の頃には代表作の歌曲「花」、中学唱歌「荒城の月」「箱根八里」、幼稚園唱歌「お正月」などを作曲。やがて廉太郎は文部省からドイツ留学を命じられ、22歳でライプツィヒ音楽院への入学を果たしたのですが、2か月ほどして結核を発症し帰国。僅か23歳で生涯を閉じたのです。また言文一唱歌運動に協力して「鳩ぽっぽ」「お正月」など、今でも歌われている唱歌を作曲したのでした。

歌詞にある「お寺の屋根」は浅草寺の屋根ということらしいのです。

作詞家である東くめが、浅草寺の境内で戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、2年後輩である瀧廉太郎が作曲したのだそうです。

迷子しるべ石

 昔、迷子が出た時には、この石碑で知らせたそうなのです。石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼り紙で情報を交換したのだそうですよ。情報の未発達な時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたのです。1860年(安政5年)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が仁王門(現在の宝蔵門)前に建立されたそうなのですが、1945年(昭和20年)の空襲で損壊したために1957年(昭和32年)に再建されたとの事。

授香所でお線香を購入

 

常香炉で煙を浴びます

 

 参拝者の体を清める為に利用する仏具のひとつですね。なんでも長い時を経るうちに「香炉の煙を身体の悪いところに掛けると治りが良くなる」という言い伝えが広がったのだそうですよ。

 

 八角形錆御影石造りの手水鉢は高村光雲作の龍神像が安置されているのです。そうそう仏法を守護する竜王の一人。

高村光雲

1852年3月8日 〜 1934年10月10日

もう誰もが知っている「西郷隆盛像」「老猿」「楠公像」で有名な彫刻家ですよね。1863年(文久3年)仏師、髙村東雲の門に入って木彫りを学び、高村姓を継ぐ。1877年(明治10年)内国勧業博覧会で最高賞を受賞。1886年(明治19年)東京彫工会を設立。1889年(明治22年)から東京美術学校(東京芸術大学・大学院美術研究科の前身)で彫刻科を指導しました。木彫りに写実主義の技法を取り入れ、山崎朝雲、平櫛田中等の後進に尽力したのだそうです。1919年(大正8年)帝国美術院会員。そうそう、あの「智恵子抄」で有名な詩人であり彫刻家の高村光太郎、鋳金家の高村豊周のお父さんでも有名ですね。

左:高村光太郎 右:高村豊周

 

手水舎の天井には東韻光作の墨絵と言われている龍が描かれておりますよ。

 

本堂

本堂は、645年(大化元年)僧侶、勝海により建立されたのが始まりとされています。1649年(慶安2年)には徳川3代将軍、徳川家光により仁王門、五重塔とともにされた本堂は、1945年(昭和20年)の空襲により焼失の憂き目に・・・

 当時の建物は国宝に指定されていたそうですよ。そういえば増上寺の徳川家墓所も同じ憂き目にあってこじんまりとした徳川家墓所にまとめられていますよね。

 現在の本堂は、1958年(昭和33年)に旧本堂と同形態の鉄筋コンクリート造で再建されています。

 

志ん橋の大提灯

 1945年(昭和20年)3月10日未明の東京大空襲で浅草寺は焼失し、1958年(昭和33年)新たに再建された際に東京新橋組合が本堂正面の大提灯「志ん橋」を奉納したそうなのです。えっ、東京新橋組合とは新橋花柳界を支える東銀座から築地一帯の料亭、茶屋、芸者置屋で構成された組合なんですって・・・

 

正面額には「施無畏(せむい)」

 観音様は経典において「施無畏者」とも呼ばれ、人々の不安や恐怖を取り除き。「畏れ無きを施して」下さる。「施無畏」とは、観音様のお働きそのものを意味するそうなのだそうです。

 本堂正面には円仁(慈覚)作といわれる御本尊「聖観世音菩薩像」がお前立の本尊として奉安されていますよ。なんでも世間の生きとし生けるものの音声を感じ、その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えて下さる有難い仏様なんだすってよ!

 

そうそう、本堂で最近、異変が起きたんですよね。ニュースでも報道されましたね。

本堂の「外陣」と呼ばれる参拝客が礼拝する天井画が剥落してしまったのです。

本来はこのような「龍之図」川端龍子(かわばたりゅうし)

現在は修復作業を進めているそうですよ。

 

さて、礼拝を終えて、ここに来たなら「雷門」を見て行かなきゃ~ね。

 

 本堂から振り返ると宝蔵門が見えてきます。全く真逆からの進行なのであしからず・・・(笑)

 宝蔵門の裏には「大わらじ」は山形県村山市の奉賛会に奉納されていて、浅草寺に大わらじを履く人がいるならと驚いて魔が去っていくという「魔除けと健脚」を願いわらじに触れる人がいるそうですよ。

 

宝蔵門

942年(天慶5年)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)が建立したとされる旧仁王門

の再建で、1964年(昭和39年)に大谷米太郎から寄進された宝蔵門なのです。2階建て鉄筋コンクリート造の入母屋造りで、2階には国宝の法華経と重要文化財「元板大蔵経」「元版一切経」や寺宝が収蔵されているから「宝蔵門」といわれています。

なんでも「元版一切経」の経典の歴史をたどると北条政子に辿り着くらしいのです。そうそう鎌倉幕府、源頼朝の正室ですよね。そんな歴史上の人物が浅草寺と関係しているのって意外かもしれませんね。

 

  宝蔵門の大提灯「小舟町」は日本橋河岸信徒の心意気を示したものなのだそうで、1659年(万時2年)に奉納したことが始まりで、三百六十有余年以上の歴史と伝統を今も受け継いでいるのだそうです。ちなみに前回大提灯を新調したのは、江戸開府400年にあたる2003年(平成15年)だったそうです。

 

五重塔

 その高さは厄53.32mでビルでいうと15~20階に相当する高さなのです。平安時代の942年(天慶5年)に武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)より本堂とともに建立され、それから倒壊、炎上に遭い、1945年(昭和20年)の戦災焼失後、1973年(昭和48年)に鉄筋コンクリート造で再建されました。現在の五重塔は焼失した後に場所を改めて立て直し、元あった場所には石碑が建っています。1966年(昭和41年)スリランカより青来された仏舎利が奉安されています。

 

 江戸時代には寛永寺、池上本門寺、芝増上寺、にある五重塔と合わせて「江戸四塔」と呼ばれ親しまれてきたそうです。

伝法院通りを横目に・・・

仲見世通りを抜けて雷門へと向かいます。全く参拝の真逆の行動・・・(笑)

 

大正時代の仲見世通り。店が土蔵のようになっていますよね。

雷門

もうこれは東京見物では外すことが出来ないシンボルですよね。

942年(天慶5年)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)より本堂とともに建立され、それから倒壊、炎上に遭い、1945年(昭和20年)の戦災焼失後、1960年(昭和35年)持病回復祈願に訪れた世界のパナソニック創立者であり経営の神様、松下幸之助により現在の場所に寄進され再建されたのだそうです。正式名称は「風雷神門」といい、門の左右に立つ2体の彫像、風神と雷神に由来するもので、浅草寺を洪水や火災から守ると言われています。

 

大正時代の雷門。現在の雷門とは全然違ううえ、提灯が小さいですよね。

 東京へ海外から訪れた観光客のほとんどの方はまずはこの「雷門」を訪れるようですね。浅草寺の総門である雷門は、風神、雷神を左右に祀っていることに由来し、江戸中期には飾られていたことが浮世絵でも確認出来るのだそうです。

浮世絵の雷門

この浮世絵を見ても当時の提灯は「雷門」とは書いていませんね・・・ 

 大提灯は、高さ3.9m、幅3.3m、重さ700㎏。福井産の手すき和紙を用い、骨組みは京都・丹波の竹林から切り出した一本竹を使用しているのだそうですよ。

 

 そうそう、本当はどうでもいいのでしょうけれど、浅草寺を参拝する際の流れと作法があるらしいのです。

① 雷門の前で合掌一礼し、門を潜る

②仲見世を通りを進み、お水舎で手と口を清める

③常香炉で煙を浴びて心身を清める。お香を供えてもよい

④本堂で礼拝する

 

いつもはこの後、浅草・亀十でどら焼きを買い、仲見世通りで人形焼きを土産にするのですが、今回は何も買わず・・・次回は必ずやどら焼きを買おっと・・・

 

あなたも浅草寺にお越しくださいな!

雷門の大提灯は何度見ても飽きないですね!