先だって埼玉県のほぼ中央に位置する越生町の「越生梅林」を見に行ったとこのことです。

越生梅林を訪れる前に3ケ所ほど立ち寄ってきたので話が前後しますがご了承願いますね・・・<(_ _)>

 最初に向かったのがパワースポットでお馴染みの「黒山の三滝」だったのですが纏めるのに時間が掛かりそうなので、次に向かったところの話からです。

 そうです。2024年に1万円札に登場する方、「渋沢栄一」の義弟(見立養子でもあるのです)の話をちょいと紹介します。実は、この黒山三滝のすぐそばに、その義弟の「自刃の地」と墓があるのです。

渋沢栄一

 2021年、NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公ですよね。幕末に武蔵野国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の富豪の長男として生れたんです。攘夷を志す青年期を過ごし、幕臣、官僚を経て実業界に身を投じると、約500の企業の設立・育成に関わり、600もの社会公共事業や民間外交にも尽力した日本近代の礎を気づいた人なのですが、幕末から明治維新の時代に生きた西郷隆盛や坂本龍馬とかに比べると地味な印象ですよね。そんな偉大な偉人の義弟が、渋沢栄一が1867年、将軍、徳川慶喜の弟、昭武(水戸藩最後の藩主)にパリ万国博覧会に参列する為に随行していたときの事なんです。

 

このブログの主人公がこのイケメン

渋沢平九郎

 結構、今でも通じるイケメンですよね。身長174cmあったので当時としては長身の男だったようです。さて、平九郎は1847年(弘化4年11月7日)、武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市)の名主、尾高勝五郎保孝の末子として生まれています。姉、千代が渋沢栄一の妻なので、義弟にあたりますが、1864年(元治元年)、渋沢栄一が将軍、慶喜の名代としてパリ万博に出席する慶喜の弟、清水昭武に随行してパリへ渡航した。その栄一の渡航により平九郎の人生は一変してしまうのです。栄一の不在中に平九郎は栄一の見立養子(相続人)となり、江戸へ出て神田本銀町に居を構えて江戸生活が始まったんです。そんな中で、大政奉還の一報が平九郎のもとへ届き、すぐさま下手計村の長男、尾高惇忠(後に富岡製糸場初代工場長)に相談を持ち掛けている。1867年(慶応3年)王政復古の大号令(明治維新により武家政治を廃し君主政体に政治転換したこと)、1868年1月に鳥羽・伏見の戦い、徳川慶喜追討令と幕末の動乱に当時数えの22歳の平九郎が巻き込まれていきます。

 1868年、鳥羽・伏見の戦いで敗走して江戸に逃れてきた渋沢成一郎(喜作)、本多晋、伴門五郎等の他、尾高惇忠も加わり彰義隊を結成したが、天野八郎らと意見が合わずに袂を分かち、成一郎らは田無に振武隊を結成。1868年(慶応4年)5月18日、振武軍ら旧幕府軍は田無から箱根ヶ崎を経て飯能に駐屯。一方、新政府軍(官軍)は5月21日に江戸から田無へ出立し田無へと向かい、そこで振武軍らが飯能にいるとの情報が入り、翌日には扇町屋(現・入間市)に進軍し、5月23日未明、笹井(現・狭山市)で新政府軍(官軍)と振武隊が遭遇、戦いの火蓋が切られます。これが埼玉県内で唯一の戊辰戦争「飯能戦争」なのです。

この飯能戦争の図ではないのですが官軍と旧幕府軍の戦い

 

飯能戦争の被害状況

久留米藩、筑前藩、川越藩等から成る新政府軍らの圧倒的な兵力と火器を有する新政府軍を前に振武軍は成す術もなく戦いは僅か半日で新政府軍の勝利で終わったのでした。

 

黒山さん瀧から顔振峠方面へちょこっと行くと・・・

 渋沢平九郎自刃の地の標識が見えてきます。左の幟はNHK大河ドラマ、渋沢栄一の「青天を衝け」が放映されているので、最近立ったようですね。

 さて、飯能戦争に敗れた旧幕府軍の兵士たちは散り散りになって逃れ、その中には渋沢栄一の縁者の姿がありました。そのうち渋沢成一郎(喜作)と尾高惇忠は伊香保方面へと落ち延びることが出来たのですが・・・平九郎は・・・

渋沢成一郎(喜作)

尾高惇忠

 

渋沢平九郎戦闘之図

 

 笹井河原(現・入間市)で傷を負った振武隊参謀の平九郎が飯能に戻った時には、振武隊本陣である「能仁寺」は炎上していたといい、渋沢成一郎らとはぐれた平九郎は羅漢山から山伝いに故郷へ戻る途中、顔振峠(現・飯能市と越生町の境にある峠)を黒山へ下っていたところで新政府軍の斥候に発見され、孤軍奮闘、小刀を振って3名を傷つけて戦ったが、最早これまでということで路傍の石に座して自決したんです。享年22歳

 

渋沢平九郎自刃の地

写真の右側の石に座して自決したと伝わっているんです。

 

石碑脇には渋沢栄一との家系図と解説が掲載されています。

新政府軍は、その首を越生の法恩寺の門前に晒し、遺骸は村人によって黒山の全洞院に葬られたのです。


 渋沢平九郎の遺書

 

 渋沢平九郎が自決する1ヶ月前、1868年(慶応4年)閏4月28日、平九郎は自邸の障子に叩きつけるように「楽人之楽者憂喰人之食者死人之事 昌忠」と書き残しています。

当時流行した漢文で、「人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う。人の食を喰らう者は人のことに死す」という意味。「昌忠」は平九郎の諱

 

 

明治45年4月14日、平沢平九郎が自刃した地を訪れた渋沢栄一一行

 

 

 図らずも幕末に徳川家より俸禄を食んだ平九郎は「徳川家に殉じる」決断し、振武隊に参陣する為に江戸を後にしたんですね。