前回は三渓園「外苑」を覗いて戴きましてありがとうございます

 

今回はその続きで「内苑」編

三渓園

 神奈川県横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されておりおり、実業家で茶人原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営しているんです。名称の三溪園は原の号である三溪からきています。

原 三渓

原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年) 8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村( 現・岐阜県岐阜市)出身。岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。

 

原 三渓は右前の人物。交友関係が広く、中央には渋沢栄一がいます

 

さてさて、

燈明寺三重塔を見てきまして坂を下り、いよいよ内苑エリアへ

 

海岸門

御門と同様で築江戸時代、京都・西方寺にあったものなんです

 

屋根瓦に何故か桃の瓦のデザイン・・・

 

蓮華院

原 三渓が大正6年に建てられたもので、土間と壁には宇治平等院鳳凰堂使われていた太い円柱と格子が使われている三渓構想の茶室なんです

石段を登り詰めて行くと・・・

 

春草廬(しゅんそうろ)

重要文化財

三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田信長の弟、織田有楽斎の作品と伝えられています。広間部分は三渓園に移築後に増設したそうです

 

 

聴秋閣

重要文化財

徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。

 

天授院

重要文化財

1651年(慶安4年)築。元々は、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築されました。原三渓の持仏堂なんです

 

金毛窟

1918年(大正7年)築、原三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小の茶室です。金毛窟という名は、床柱に京都大徳寺の山門 金毛閣の高欄の架木を使用していることに因んでいるそうです。

丸畳一畳の客座と台目畳の点前座で構成された茶席のことをいうそうです

 

月華殿

1603年(慶長8年)築、初代徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。 1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟と繋がっているんです

 

臨春閣のすぐ脇には古い木造の橋があった。橋の中ほどには屋根のついた小屋のようなものが設けられています

亭榭

見晴らし台の事をいうんですね。

 

その亭榭の前に立つ原三渓

 

瓢箪文手水鉢

豊臣秀吉が愛用した手水鉢と伝えられているものなんです。後年、藤堂高虎に賜り、伊賀上野城に合ったものなんだそうです。藤堂高虎は築城技術の名人として名だ高いですよね

 

 

旧天瑞寺寿塔覆堂

1591年(天正19年)築豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。

 

中々いい風景でしょ

 

臨春閣

現在保存工事をしていて全体を見ることは出来ませんでした

 

1649年(慶安2年)築桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造り

 

この臨春閣の隣に白雲亭という原三渓が隠居所として夫人とともに暮らした邸宅があるのですが工事と被っていて見ることが出来ませんでした

 

御門

1708年(宝永5年)築、京都東山の西方寺にあった薬医門

 

観心橋と涵花亭

 

鶴翔閣

1902年(明治35年)築、原三渓が住まいとして建てたもので、延べ面積950㎡の大規模住宅。原三渓と交流のあった文化人、政界人らが多く出入りしていた邸宅としても知られています。

 

これで外苑、内苑と三渓園を逆回りしました。

 

庭園の素晴らしさと歴史ある建築物が見事に調和していますね。横浜にもこんな景観が望めるところがあるんですね。皆さんも足を運んでみては・・・癒されますよ・・・

 

因みにガイドの方の詰め所があるので、建築、歴史に興味があれば案内してもらうと楽しい散策になりますよ