コロナ感染自粛以来、小太郎も仕事以外は江戸には足を踏み入れることなく今日まできました。がしかし、テレビでは都内の見どころ、食べ処の紹介ばかりされていますからなんとなく苦々しいですね。東京の歴史ある見どころ食べ処に行きたいんですけれどちょっと足が向かない今日この頃・・・(笑)
 てなわけで自粛前のお話。 皇居の大手門へ向かう途中、建築ビル群の間に木の生い茂った場所があり、幟に神田明神旧蹟地とありました。
 
よくよく見てみると・・・
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将門塚
 
 三井不動産は東京・大手町の三井物産本社ビル、旧プロミス本社ビルなど3棟を再開発し、超高層ビル2棟を建築しているのですが、何故かこの地だけ計画外になっているのです。
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ここが正しく日本三大怨霊「平 将門の首塚」だったのです。
平 将門
 今を去ること1150有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし、忽ちにして坂東8ヶ国を平定、自ら平親皇と称して政治の革新を図ったのですが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死したのです。享年38歳と若くして亡くなったことは無念だったでしょう。世にこれを天慶の乱というんですよ。 
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたんですが京都に送られ獄門にされた将門の首が、腐りもせずに眼を見開いて切断された自分の胴体を求めては「頭ついで今一軍せん!」と夜な夜な叫んだとか・・・。3日後白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちたのです。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったというんです。村人は恐怖して塚を築いて埋葬しました。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられているのです。
 
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 それと今一つは江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところでもあるのです。
陸奥国仙台藩2代藩主、伊達忠宗の六男、陸奥国仙台藩3代藩主、伊達氏19代当主
伊達綱宗
陸奥国仙台藩3代藩主、伊達綱宗の長男、陸奥国仙台藩4代藩主
伊達綱村
涌谷伊達家初代当主、伊達定宗の二男、涌谷伊達家2代当主
伊達安芸宗重
仙台藩2代藩主伊達忠宗の五男、登米伊達家4代当主
伊達宗倫
 
仙台藩重臣、奉行職
原田甲斐
 この伊達騒動、江戸時代前期、仙台(伊達)藩に起こったお家騒動で、万治3年(1660年)藩主伊達綱宗が所行の紊乱(要は乱行)を理由に幕府から隠居を命じられ、2歳の亀千代(後の伊達綱村)が家督を相続したのです。伊達兵部宗勝が後見役となり、班内は進歩派、原田甲斐と結んで実権を掌握。それに対して不満を持っていた保守派の有力者、伊達安芸と伊達式部宗倫の書陵争いが起こり、安芸は藩内の実情を幕府に注進したのです。
酒井雅楽頭忠清
 寛文11年(1671年)大老酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷で裁決が行われたのですが、安芸は甲斐に殺害され、甲斐は酒井家の家臣に斬られ、宗勝は処罰されて伊達家は安泰となったという騒動だったのですよ。
 
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ビル群に囲まれているのに何故か静けさがあるのです・・・(恐)
 
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村人は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたそうです。
 諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、霊を供養したそうです。
二祖他阿真教上人
 
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将門の首塚
 風化しないようになのかいたずらされないようになのか今はケースに保管されている状況です。
 塚の脇にカエルの置物があるでしょ、将門の首が京から飛んで帰ってきたことに因んでおり、再生の願いを叶えてくれるんです。
ここで祟りのエピソード
 関東大震災後の跡地に都市開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣、早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるために仮庁舎を取り壊した事件や第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件があったんです。
早速整爾
それとこんなエピソードがあり、お笑い芸人の爆笑問題、太田光がブレイク前に、此の首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいで暫くの間全く仕事が来なかったという話もあるんですよ。まっ、墓に蹴り入れるのはどうかなって思いますがね・・・
関東
 
あなたも一度は訪ねてみませんか、勇気を出して・・・
 
決して怖い方ではないと思いますよ!コロナ撃退してくれるかもね。
 
くれぐれも首塚に蹴りは止めましょうね!