東京で「GO TOキャンペーン「」が対象外となりましたが隣の県に在住の小太郎もこんな状況化では旅に出るのも憚れる今日此の頃。むかし話になりますがバスツアー回想禄で旅気分を・・・
 
 平成23年6月にフランス・パリで開催された第35回世界遺産委員会で登録の決議がなされました。その場所は・・・
≪平泉≫
 
1. 登録名称
平泉 ‐仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-
 
2. 遺産の種別
文化遺産(記念工作物・遺跡)
 
3. 所在地
岩手県平泉町
 
4. 構成資産
中尊寺(ちゅうそんじ):特別史跡
毛越寺(もうつうじ):特別史跡・特別名勝
観自在王院跡(かんじざいおういんあと):特別史跡・名勝
無量光院跡(むりょうこういんあと):特別史跡
金鶏山(きんけいさん):史跡

 

 
バスツアーにて時間に限りがあるので
【中尊寺】 【毛越寺】を訪れ【金鶏山】は眺めただけでした。
 まずは中尊寺から紹介して行きますね! 団体バス駐車場を降車して中尊寺ハスが咲いているところの参道を歩いて行きます。 DASH!
 
 
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少し歩くと・・・
 
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これが中尊寺ハス。
もう時期ハズレなのですが何輪か咲いていました。
 昭和25年の金色堂の御遺体調査において、植物学者で古代蓮の研究の第一人者である大賀一郎氏は「忠衡公首級」と伝わる首桶から「ハス」の種子を採取しました。大賀氏没後、埋もれた資料の中から発見され、平泉に返還され、「賛衡蔵」に保存されていたんです。故大賀博士の門下である恵泉女学園短大の長島時子教授に播種育成を依頼し、平成5年に発芽したが、その後花を咲かすまでには至らなかったそうです。日照時間の不足が原因か?との考えで育成場所の周りの樹木を伐採し日照時間を長くし、ようやく平成10年7月14日(発芽確認から5年目)につぼみを確認できたんです。7月29日に開花を確認。7月30日開花の発表が行われました。
和蓮(われん)の一種で、「中尊寺ハス」と命名された。
 その後、平泉・中尊寺に移されたそうだけど、満開に咲いているところを見てみたかったなぁ~
 
大賀一郎
 植物学者。1883年(明治16年)~1965年(昭和40年)岡山県生まれ。灯台理学部卒。八高教授を経て、満鉄社員、関東学院大教授を歴任。戦後はハス池として知られた上野不忍池の復興に尽力。更に昭和27年千葉県検見川遺跡から2000年前のハスの実を発見し発芽に成功し、注目を浴びるようになったんです。ハス博士と言われ、大賀ハス発掘記念碑も建設されたそうです。
 
さぁ中尊寺ハスを横目に参道を歩いて行きます。 DASH!
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年季の入った杉の大木の間を通り抜けているとマイナスイオンを感じます・・・
 
 そこで、全部のお堂を訪ねることは時間が限られているから出来ないので抜粋して訪れることにしました。
 
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まずはともあれ中尊寺を訪れてここに立ち寄らなければ話ならないお堂から行きます。
 
『金色堂』
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金色堂新覆堂
                    
 
 現在の覆堂は、昭和45年に建立されました。地震や火災に強い鉄筋コンクリート造りです。これは金色堂を保護する為の覆堂図面です
空調設備も整えられ、金色堂を湿気や害虫から守っています。 金ぱくや 螺鈿(らでん) によって装飾された金色堂は、初代清衡が建てたお堂の中で唯一現存するものです。
 
 向かって中央の壇には初代清衡、左の壇には二代基衡、右の壇には三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級が納められています。血筋が明らかな親子4代の遺体の存在は例をみないということです。
金色堂内は撮影NGですのであしからず・・・
 

 初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]

 第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]

 第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]

 第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)

藤原泰衡の画像が見つかりませんでした・・・
 これが埋葬されていたミイラですがい、今日では見ることが出来ません。この写真は1950年(昭和25年)に金色堂補修の際に人類学者で東北帝国大学の長谷部言人名誉教授を団長とした「藤原氏遺体学術調査団」により調査した時のものです。
頭だけのミイラは当時、藤原忠衡のものと伝えられていたのですが調査の結果、藤原泰衡の可能性が高いと結論が出たそうです。
長谷部言人
 人類学者。1882年(明治15年)~1969年(昭和44年)東京生まれ。1906年、東京帝国大学医科大学を卒業後、京都大学解剖学教室の足立文太郎に師事、肉眼解剖学と人類学を専攻して、日本人の脊柱の研究で医学博士の学位取得。その後、新潟医学専門学校、東北大学の解剖学教授を歴任、1938年、東京大学理学部教授となり、1939年、日本最初の人類学科を創設したんです。
 
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金色堂に入る手前に藤原基衡公850年忌をの塔婆が建っています
 
 残念ながらこのなかの金色堂は カメラ 映画 の撮影は出来なかったのでちょいと写真をお借りした。
 お堂は木造造りに金箔が張り巡らされています。屋根瓦も木製。金箔で修復はされているのですがかなり放置されていたんでしょうね、近くで見るとかなり傷んでいましたね。それにしてもこの金色堂は藤原文化の繁栄を象徴しているのかもしれませんね。今回訪ねた際は長蛇の列で数時間待ちにはならずにスムーズにゆっくり見ることが出来ました。
 
金色堂を出ると『経蔵』
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 鎌倉時代末期の建築だそうだ。国宝で通称「中尊寺経」と呼ばれる一切経の、1行おきに金字と銀字で書写した経「紺紙金銀交写経」と、金字で書かれた「紺紙金字経」が納められている。
 「中尊寺建立供養願文」によると、当初は2回瓦葺きだったようで、1337年(建部武4年)の火災で上層部を失ったと伝えられ、古材を使って再建されたようです。
 
旧覆堂へ向う途中
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松尾芭蕉翁の句碑が
五月雨降り残してや光堂
 金色堂を光堂と称し、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉は眼差しを向かたのでしょうね・・・
 
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お~っと芭蕉翁とツーショット
 
 源義経が平泉で自害し、奥州藤原氏が滅亡してから500年目にあたる1689年(元禄2年)、松尾芭蕉、門人の曽良と2人「奥の細道」の旅に出ます。江戸を出てから44日目の5月13日、細道の果て平泉に訪れたのでした。
 
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次に訪れたのは『旧覆堂』
 覆堂とは鞘堂とも呼ばれ、内部の仏像やお堂などを守る為にそれを覆うようにして造られた建築物。例えば奈良の東大寺の大仏殿も大仏を守る覆堂だ。この金色堂旧覆堂は、室町時代中頃より500年以上に渡って金色堂を風雨から守ってきた。建立当初、金色堂には覆いがなく、直接風雨に晒されていたが、痛みが激しかったため、やがて覆堂が建築されたわけだ。これで金色堂が傷んでいたことに納得が行くでしょ!
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中にはこんな柱が建っていました。
 松尾芭蕉をはじめとする文人墨客、あるいは伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したようです。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在の位置に移築されたんです。近年の調査では、金色堂が建てられてから50年後程で、簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、今の建物は室町所代のものtかんがえられているようです。
 
伊達政宗
明治天皇
 
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旧覆堂を経て『釋迦堂』の入り口を眺めました・・・(笑)
1719年の再建で本尊は釈迦三尊です。正月6日には、中尊寺の多くの僧侶により法要がい泊まれるようです。1719年の再建で本尊は釈迦三尊(しゃかさんぞん)様です。正月6日には、中尊寺の多くの僧侶達によって正月の法要が営まれています。
 
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 時間があまりなくなってきたので『白山神社』と『野外能学殿』は端折りました・・・(笑)
 
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讃衡蔵(さんこうぞう)
 讃衡蔵は中尊寺に伝わる文化財・宝物を永く更正に伝える為に造られた宝物館。この名は奥州藤原三代の偉業を讃えるという意味らしい。残念ながらここも カメラ  はNGにて候。 讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品等が収まられていました。平安時代奥州藤原氏によって造営された、在時の大伽籃中尊寺の様子を伝えています。
 
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お香の焚く香が良かったので買っちゃいました。
その名も『関山香』
 
中尊寺限定のお線香です。心がやすらぐ、気品漂う名香
 
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途中『観音堂』に立ち寄り カメラ
 本堂の斜め向かいにあり、薬師堂に隣接するお堂で、ひっそり佇んでいました
 
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『大日堂』
智拳印を結ぶ「金剛界大日如来像」が納められているのです。
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これが大日如来様です
 1802年の再建で、本尊は金剛界大日如来。前庭に建つ石造りの宝篋印塔は1823年に造立
 
『不動堂』には寄らずに『峯薬師堂』へ
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お~っと忘れるところでした。大日堂のまえに『鐘楼』が!
 1343年(康永2年)、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘により窪んでしまい、今ではこの金を撞かれることはないそうです。
 
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こちらが『峯薬師堂』 目にご利益があるとか?
 境内の別峯に建っていたそうですが、度重なる野火にあい、1689年に現在地に移設されました。讃衡蔵に安置されている丈六の薬師如来は元はこのお堂の本尊だったそうです。
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 作られた時期は不明。薬王寺奥の院峯薬師堂は、かつては薬王寺の本堂でした。堂は近年修繕されましたが、堂内は昔の状態を残していています。左右壁面の彩色画、総ケヤキ造りの須弥檀(しゅみだ作ん)の金箔、両扉の菊の紋などが施されています。
 
さてこの峯薬師堂のお隣が
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『中尊寺 本堂』
 
 中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17カ院の支院(塔頭、大寺の中にある小院)で構成されている一山寺院です。
 本堂は、一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建されました。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で、一山20~23名ほどの僧侶が総出仕して勤められます。
 ご本尊は阿弥陀如来、ご参拝の方は掌を合わせて「南無阿弥陀仏」と心の中でお唱えすればよろしいでしょう。本尊の両脇にある灯籠は「不滅の法灯」といわれる、宗祖伝教大師最澄が点して以来消えたことがない天台宗の象徴的な灯で、総本山延暦寺から分けていただき護持しています。
中尊寺の寺格は別格大寺、東北大本山の称号を許されています。
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門の正面には立派な松が植えられておりました。
 
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手を清めてから
 
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香でさらに清めて
 
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手と手を重ねて幸せ~
 
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ここにも別の鐘楼が
 
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このところ
 
善い事がないもんで
 
肌守を・・・(笑)
  
本堂を後にして坂を下って行くと
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「地蔵堂」がありました
 
 1877年の再建で、本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。また隣に建つ祠(ほこら)には道祖神(どうそじん)が祀(まつ)られています。
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さらに坂を下っていきますと『弁慶堂』に立ち寄りました。
 
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 杉の大木も夫婦のようにくっ付いています。なにか良い事がありそうだ!
 
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ここが『弁慶堂』
 弁慶堂は中尊寺の参道沿いにある建物で、入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されています。
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 案内板によると「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。
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 弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」とあります。
 
源義経
牛若丸の頃のイメージを持つとあまりにもギャップが・・・
 
武蔵坊弁慶
 
近くにこんなものがあったので
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決して生首ではありません。弁慶になった食いしん坊です
 
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なんていう花かは分かりませんが咲いていました
 
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ここが『月見坂』
 中尊寺の表参道を月見坂といいます。道の両側には、江戸時代に平泉を治めていた伊達藩によって植樹された樹齢300〜400年ほどの杉の並木が続き、歴史の長さを物語ってくれます。この坂をゆっくりと上っていくと、奥州藤原氏が栄えた平安の昔を伝える山上へ、まるでタイムトンネルを通っていくような感じがします。日常の忙しさを忘れて、風情を味わいながらゆったりと歩むと、心が洗われるような感じを与えてくれます。
気持ちの良い目の保養と散策が楽しめました。
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坂を下り切ると
 
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中尊寺の入り口にと出てくるのでした。