谷中霊園には76名もの著名人が眠っています。こちらはその人物を知っていても相手からすれば全くの知らない人ですが墓の前に立つと何故か問答するように会話が出来るような気がします。  その1の続きです。
 
 霊園案内図でいうと乙8号4側に位置するところに元首相、元民主党代表・鳩山由紀夫議員と自民党の故・鳩山邦夫議員のおじいさんで元首相・鳩山一郎の墓がある。薫夫人と共に眠っている。
イメージ 1
鳩山一郎・薫夫人
 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年明治16年)1月1日 - 1959年昭和34年)3月7日)は、日本政治家弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣正二位大勲位1912年大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954(昭和29)-1956(同31)年に首相を務めた。首相在任中、保守合同を成し遂げ自由民主党の初代総裁となり、日本ソビエト連邦の国交回復を実現した。
4世代に渡り東大出身で政治家を輩出しているいわばエリート一族なんですよ。
まるでケネディ一族のようですね!
 
そこには奥さんの薫夫人の縁の下の力持ちのエピソードがあるのです。それは次のとおり。
 
 お坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、妻の薫に対しても暴力を振るう事があったそうだ。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭したという。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は薫を非常に大切にするようになったのだと言うのだ。孫の邦夫議員の幼時の回想では癇癪を起こした際にとりなす役目も薫夫人がしていたそうだ。やはり女性なくしては男はうだつが上がらないんだね!
 
とにかく墓の脇には昼時のせいかワンサカ!ワンサカ! タクシーが停まって休憩している状態で車を除けての撮影となりました。丁度木陰が出来ていて暑いときには最高の休憩場所なんですよ。
 
 鳩山一郎の墓を横目にすると乙8号4側の同区画に日本画壇の巨匠、横山大観の墓が建っている。ここもタクシー休憩を横切っての撮影。
イメージ 2
 
横山大観
 正字体:大觀、明治元年9月18日1868年11月2日) -昭和33年(1958年2月26日)は、戦前日本美術家日本画家茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第一回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章追贈された。茨城県名誉県民東京都台東区名誉区民。本名、横山秀麿(-ひでまろ)。
 彼にも物凄いエピソードがあるのだ!それは酒豪!
 大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。飲んでいた酒は広島の『醉心』で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。[1]もっとも、最初から酒好きだったわけではない。若い頃は猪口2~3杯で真っ赤になってしまう下戸だった。しかし師の岡倉天心は日に2升ともいわれる酒豪であり、「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果であった。なお昭和30年頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたが晩年は量も減り昭和32年頃になると1日に4合飲むのがやっとだったという。最晩年の昭和33年になると1日に5勺(1合の半分)しか酒を飲めなくなっていた。鯨飲はしていたものの、アルコール中毒になるということはなく、大病もせずに90年の寿命を全うした。
 
次回は最後の将軍をご紹介致しまする・・・・