今日は過去の記憶が一瞬で変わった体験を書いてみます。



私の父は私が大学受験のときに53歳で倒れました。


それから14年間ずっと病院のベットで人生を過ごしました。



気前が良く豪快で賑やかなことが好きで
プライドの高かった父ですから、
志半ばで倒れ、身体も言葉も不自由だった14年間は
さぞかし心残りで悔しくて残念な人生だっただろう、
と、ずっと思っていました。



最後のほうは週に3回の透析で、生きているというよりは
近代医学で生かされているという状態でしたから。



それでも父は生きたいと願ったから
14年も生きることができたのですが、
こんな人生のはずではなかったのに、
と心中は悔しかったのではないかな、
とずっと思っていました。



父の姿から、
人生で大切なことは心身の健康である、
ということを私は学んだけれど、
父の心中は無念な人生だったに違いない。。。
すっとそんな風に父のことを考えていました。



去年のこと、ある本か、ブログか記憶が曖昧ですが、
こんなことを知りました。


『現世で家族として生まれてきたのは
1つのグループとしてお互いに学ぶためです。


家族は特に強い絆をもって生まれてきたのです。

親は子に、子は親に学ぶのです。


お互いに魂を磨くために家族になると決めて生まれてきました。


その学びの究極は、愛です。


たとえ、その時にその学びが愛の形をとらなくても
最終的に私たちは皆、愛を学ぶために生まれて来て、
お互いから愛を学ぶのです。』


父のことを考えてみました。


父が私に教えたかったこと、
父が父の人生を通じて私にくれた愛とは。。。。


そのとき、ハッとしました。

一瞬にして父の記憶が入れ替わった瞬間でした。



ああ、父は私に人生で最も大切なことを教えるために
自分の身体と14年という時間を使って
身をもってそれを示したのだ。。。。


自分が病気になることで健康の大切さを教えてくれた。。。


これこそが父の大きな愛だった。


父にしかできない愛を示した人生だったのだ。


今まで私が勝手に父から学んだ、と思っていたこと、
それこそが父の意図していたことだったのだ。。。



そうわかった瞬間、大きな何かに包まれたような安堵とともに
涙がとめどなく流れてきました。


父は家族のために自分の使命を果たして
納得してこの世を旅立ったのだ。

だからあんなに穏やかに眠るように逝ったのだ。。。



私が父から勝手に学んだと思っていたことは、
父の愛であり、お互いの学びだったのだ。



父の人生は決して惨めでも無駄でもなく、
大きな意味のある人生だった。。


今、父のことを思うとき、
私の気持は悲しくも惨めでもありません。

大きな感謝の気持があります。


満足そうに笑っている父が見えます。



今改めて思うに、
このような視点・解釈の変化は、
新しい知識や新しい経験に触れることによって
私の想像力が変化した、ということなんですね。



新しい何かに触れなければ、
私の中で父はいつまでも可愛そうな父という姿で
残っていたでしょう。



つまりは、私の中にはあらゆる可能性の種があり、
新しい何かに触れることで、
自分の中で化学反応が起こって、
今まで黒かったものが真っ白に変化したり、
今まで毒キノコだったものが可憐なバラに変化したり、
あらゆることが自分の内側では可能なのですね。



そしてそれが外の世界に投影されるのです。



逆に、1つの考えに固執したり、
物事を独りよがりで決め付けたり、
外の世界から自分を閉ざして自分の殻に入り込むのは
自ら未知の可能性へのアクセスを拒否していることになり、
事態は何も変わらず、自分の世界も広がらないのですね。



これの変化は過去だけはなく、今現在、未来にさえも
当てはまるのですね。



過去も今も未来も、今の一瞬の意識で変えることができる
日々の出会いと気づきに感謝します。