「刺」「殺」「盗」「死」、あるいは「犠牲」・・・言葉(漢字)自体が持つ視覚的・聴覚的生々しさ。それらを日常的に見聞きすることに慣れてしまう危うさ。いちいち御尤もではあるけれども・・・
●時代の趨勢
ま、これも時代かなと。
宮城県高野連では野球人口拡大に向けて普及振興活動を 行っておりますが、その用語の中に、現代では相応しくな い用語も含まれると考え、「考えてみよう」という取り組 みを始めました。
皆さんも一緒になって考えてみませんか?
そこそこ話題になりました。
サイトでは、「詳細については下記よりご覧いただきQRコードよりお答え下さい」と続けているのですけれども。
https://www.miyagi-kouyaren.com/files/1752130138.pdf
「教育的配慮」・・・確かに、改めてそう言われれば、そうかなとも思います。
業界として、見直していこうというのであれば、それ自体にケチを付ける理由もありません。
●「教育的配慮」?
しかしながら、です。
重要なのは、日常的に「殺」や「刺」という過激な言葉を繰り返し使うことで、それらの言葉が本来持っているはずの恐怖や重みに対して、子供たちの意識のハードルが下がってしまうという心理的なリスクです。グラウンドの中で「記号」としてカジュアルにこれらを利用しているうちに、攻撃的な言葉への心理的な抵抗感が薄れる可能性も否定できません。
チームメート同士のSNSでのやり取りなどの日常のコミュニケーションにおいても、行動がその言葉の暴力性に引きずられてしまう可能性を過小評価すべきではないでしょう。少年たちが自分の肉体を使って叫ぶ言葉だからこそ、その影響力は大きいのです。
「子供たちの意識のハードルが下がってしまう」とか「行動がその言葉の暴力性に引きずられてしまう」とかいう話に持っていかれると、そうかなあって感じにもなります。
こういったことを言いだす人(達)は、単に「いい人(達)」だと思われたいだけなんじゃないのか、と。
そして、そういう気分は、すぐさま他競技へも伝播していくのでしょう。
柔道の技や、相撲の決まり手にも、相当に物騒な言葉が使われていますしね。
私自身は、見直したいならそうすれば良いけれども、しなければならないということもないだろう、くらいの立ち位置です。
●「そんなことよりも」!
一方で、「そんなことよりも」という気分もあります。
野球用語にやいのやいの言うなら、だったら、巷に溢れるニュース報道はどうなんだ、そこに「見直し」を求めないのは何故なんだって話ですよ。
一昔前なら新聞の社会面止まりだった種類の事件・事故報道が、いつからか1面トップ掲載も普通になってしまいました。
そこでは、刺殺、強盗、死亡など、「恐怖や重み」を伴った言葉が、何の配慮もなしに使われています。
直接の被害者とその家族親類、せいぜい知人縁故関係以外、ほとんどの人には関係ない話なのに。
もちろん、人それぞれが、それぞれの領域において何かを始めるのは良いことです。
ですが、言葉の遣い方について高みからモノを言う、のであれば、その矛先は、まずマスメディアにこそ向けるべきだと思います。
まずは、業界内の正義にどっぷり浸かった大人が、日々、子供の心を殺しているのだと自覚しなさい、です。
野球というのは「間」が多い競技でありまして。
近頃減ってきたとは思うのですが、汚いヤジとか横行するのはどうにもこうにも。
私個人は、用語に怖さを感じることはありません。
ですが、ヤジとそれを発する人の存在は不快ですし、そちら方面があまり咎められないことにこそ、大袈裟に言えば、恐怖を覚えます。






