自然災害に備えて「命を守る行動を」とか、感染症に対して「大切な人の命を守るために」とか、そこら辺、人に言われて何かする(しない)ということ自体、間違いの始まりで・・・
ここのところ、
そこそこの豪雨予報に「災害級」とか「警報級」とか、台風が接近すれば「最大級」とか「最強クラス」とか、
やたらオーバーで、けれど後になって、はっきり「違うじゃないか」と文句を言うには曖昧な表現が飛び交うようになってます。
●所詮「商売」で「商品」
ケシカランことです。
誠にケシカランことではありますが。
それもこれも、
マスであれネットであれ、メデイアは商売をしているわけで。
そこで扱われる情報なんて、注目されて(読まれ、視られ、クリックされて)ナンボの商品なわけで。
耳目を集めそうな表題・タイトル、刺激的な画像・映像があふれるのは、言ってしまえば必然で、そこを批判しても詮無いなという気もしてます。
なので、そういった「実態の伴なわない未来予測」は、話半分に聞いて華麗にスルーしておけば良いと思います。個人としては。
困ってしまうのは、いわゆる社会が、そういった過剰報道を真に受けて、「何かあったとき」のために、いちいち「最大限の備え」をしてしまうことで。
もちろん、そうなるのは分からないでもありません。
これまで、結果として何らかの被害が出たとき、官公庁とか公共交通機関とか各種イベント企画者とかに対して、「あれをしてなかった」「これをしてなかった」と、少なからぬ人々が「人のせい」にしてきた、その裏返しでしょう。
●「当たり前」のタブー化
メディアが煽る「未だ無い」危機を「可能性はゼロではない」として怖れる。
そりゃ、可能性はいつだってゼロではない。なのに、その被害は「ゼロ」でなければ気が済まないと、これまたメディアが責め立てる。
そんな中、いつしか人は、当たり前のことを忘れてしまいました。
少なくとも、公には「言ってはいけない」部類になってしまったかのようです。
山は崩れる、川は溢れる。
人は病気になるし、生きてりゃ死ぬこともある。
危険のない人生なんてない。
どこまで安全運転で生きるかだ。
不安のない人生なんてない。
どこまで安心のためにお金をかけるかだ。
全ては程度の問題。
個人の生き方が問われるだけ。
危険と不安の中、自分を生きるか。
安全と安心にくるまれて、ただ、生きるか。
人生、人それぞれ。
「命は大切」を至上とする価値観、人生観もアリ。
けれど、それを絶対・普遍として、
人を巻き込むのだけは止めてほしい。
●「生き延びたいだけなら、それも良い」
羽織を一枚とか、折りたたみの傘をとか、外出は控えましょうとか、微に入り細に入り天気お姉さんに気遣ってもらう生活も悪くはないでしょう。
家畜のような生活であっても、安全・安心と言えなくもないし、見方によっては、まあ、幸せと言えなくもありません。
確かに「生き延びたいだけなら、それも良い」のだし、それもこれも、個人の判断。
ただ現実の家畜は・・・
最後は、誰かの手によって屠られる運命にあるよ。
実際、コロナ[対策]禍にあって、その半歩手前まで行ったからね。
こんな本があります。
「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」これは20世紀最大の文豪、カフカの言葉。日記やノート、手紙にはこんな自虐や愚痴が満載。彼のネガティブな、本音の言葉を集めたのがこの本です。悲惨な言葉ばかりですが、思わず笑ってしまったり、逆に勇気付けられたり、なぜか元気をもらえます。誰よりも落ち込み、誰よりも弱音をはいた、巨人カフカの元気がでる名言集。
以下、引用。
9 ひとりでいれば何事も起こらない
ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、
ひとりでいれば何事も起こらない。
⎯⎯フェリーツェへの手紙⎯⎯
10 地下室のいちばん奥の部屋で暮らしたい
ぼくはしばしば考えました。
閉ざされた地下室のいちばん奥の部屋にいることが、
ぼくにとっていちばんいい生活だろうと。
誰かが食事を持って来て、
ぼくの部屋から離れた、地下室のいちばん外のドアの内側に置いてくれるのです。
部屋着で地下室の丸天井の下を通って食事を取りに行く道が、
ぼく唯一の散歩なのです。
それからぼくは自分の部屋に帰って、ゆっくり慎重に食事をとるのです。
⎯⎯フェリーツェへの手紙⎯⎯
55 愛せても、暮らせない
誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。
しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。
⎯⎯日記⎯⎯
こんな本もあります。
「医療による生活支配」もはや2年。
その結果、経済は壊れ、人間の絆は絶たれ、自殺数は激増した。
果たしてそれで「日本人の健康」は守られたのだろうか?
いつまでこれを続けるのだろうか?
そんな社会を子どもたちに残していいのだろうか?
本書はそうした社会・人文学的な疑問を現役医師と一緒に考える、
「コロナ禍から卒業するための教科書」である。
以下、引用。
「人間の死亡率は100%」だ。
僕の医者としての経験上それは多分間違いない。人間は必ず死ぬ。
新型コロナ肺炎だけでなく、インフルエンザでも、普通の肺炎でも、ガンでも心筋梗塞でも…原因は無数にある。人は死ぬのだ。
そう、本当に残念なことだが、人はふとしたことで命を落とすものなのだ。
これだけ医学が進歩しても、助けられない命は無数にあるのだ。
もちろん、助けられる命は全力で助ける。それが医療だし、それが医師だ。
しかしそれでも、リスクは決してゼロにはならない。なぜなら人は必ず死ぬのだから。いや、むしろ、リスクゼロを追求すべきではないと言ってもいい。
リスクをゼロにしようとする医療側の真摯な努力が逆に様々な弊害をもたらしてしまうことは、医療の歴史を鑑みれば容易に想像ができるのだから。
コロナ[対策]禍は、本当に終わったのか。
医療業界のみならず、いわゆる社会全体に、その残滓が色濃く残っているのではないか。そんな空気に嫌悪を抱く人よりも、むしろ、自分の支配欲、金銭欲を満たすために利用しようとしている人の方が多いのではないか。
地球環境とか公衆衛生とかを枕とするニュースに接する度、そんなことを思い気が滅入る今日此頃です。