「多様性を認めよ」・・・要は「生き方」の違いを受け入れよ、ということなのでしょう。けれど、自分とは違う誰かが存在することと、その誰かがすぐ隣で暮らすこととでは、言葉の意味も重さも違ってくるわけで。

 

 

「ドイツ見習え論」が寄せては返す我が国ですが・・・

 

 

●人と物との「多様性」

 

一月ほど前、こんなニュースがありました。

 

 外国産が排除され、自国ドイツ産の商品だけがまばらに置かれたスーパーで途方に暮れる買い物客―。移民排斥を掲げて支持を拡大する右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」への抗議行動が広がるドイツで、大手スーパーが多様性の大切さを訴えるために制作した動画が話題を呼んでいる。

 

 「コーヒーもチョコレートもありません」。店員は客に説明する。野菜や乳製品、パンなどはあるが、ほとんどの棚はスカスカだ。「普段食べているものが何もない」と戸惑う女性や、空の棚を前に立ち尽くす男性も。

 

 制作したスーパーのエデカは動画で「多様性がなければ、ドイツは貧しくなる」と訴える。

 

 

 

「ふ〜ん」くらいのモノではありますが、せっかくなんで元ネタを。

 

 

 

冒頭、スカスカの商品棚映像に、黒地白抜きの字幕スーパーが挿入されます。

 

 

Stellen Sie sich einen Suparmarkt vor …

スーパーマーケットを想像してみてほしい…

 

… in dem es nur deutsch Produkte gibt.

…そこにはドイツ製品しかない。

 

Wir haben alle ausländischen Produkte aus einem 

Markt geräumt, um ein Zeichen zu setzen:

私たちは兆候を示す目的で、ある店から外国製品をすべて撤去しました:

 

Für Vielfalt.

多様性のために。

 

 

「ほほう」ですね。

 

そして、お客さんのインタビューに交え、商品棚に置かれた表示のアップ。

 

 

UNSERE AUSWAHL KENNT HEUTE GRENZEN

今日、私たちの品数には限界があります

 

HEUTE IM ANGEBOT: VIEL WENIGER VIELFALT

今日の品揃え:バラエティに乏しい

 

WIR WÄREN ÄRMER OHNE VIELFALT

多様性がなければ、私たちはもっと貧しくなる

 

DISER MARKT IST ÄRMER OHNE VIELFALT

多様性がなければ、この市場はもっと貧しくなる

 

DIESES REGAL ZEIGT: WIR WÄREN ÄRMER OHNE VIELFALT

DEUTSCH WÄRE ÄRMER OHNE VIELFALT

この棚を見ればわかる:多様性がなければ私たちはもっと貧しくなる

ドイツはもっと貧しくなる

 

 

でもって、締めに、再び黒地白抜きの字幕スーパー。

 

 

Dieser Supermarkt ist Geschichte.

このスーパーマーケットは歴史に残る。

 

Unser Zeichen bleibt:

私たちの合図は残っている:

 

WirVielfalt.

私たちは多様性を愛しています。

 

 

「なるほど〜」です。

 

 

ですが、これ、“Für Vielfalt.”“Wir♥Vielfalt.”といった文言があればこそ、外国産排除の危うさを言いたのだな、と分かりますが・・・

 

ワタクシとしましては、むしろ「輸入が止まるとこうなるよ」という意味で、外国産品に頼ることの危険性を感じてしまったりもして。

 

 

いや、それ以前に、「外国産排除」と「移民排斥」とを同列に扱うこと自体、非人道的なことじゃないですか、とも思ったり。

 

 

物ならモノを言いません。どれだけ輸入されても、誰かのものになるか売れ残って処分されるかで済みます。

 

が、人ではそうもいきません。食べて恋して眠って、生きていってもらわなければなりません。

 

 

そして、その食べ方、恋し方、眠り方(死に方)について、生まれや育ちが違う人どうしでは、どうにもこうにも我慢できない、といううことが往々にしてあるわけで。

 

 

●「翔んでしまった埼玉」

 

さて、ずっと燻っていた埼玉県の「水着撮影会」なるものですが、こんなニュースがありました(2024/03/06/14:49配信)。

 

 県公園緑地協会は5日、県営水上公園における水着撮影会の開催許可条件を発表した。併せて、禁止される水着やポーズをこれまでの提言素案以上に詳細な図解付きで示した手引を発表。条件や手引に留意し、説明会や事前打ち合わせなどに参加した撮影会主催者から、各公園の管理事務所が許可証の申請書を受け付ける。

 

 条件策定後初めて撮影会が開催されるのは4月下旬~6月で、事業者向け説明会は3月12日。同協会ホームページで5日から申し込み受け付けを開始した。

 

 条件や手引きによると、撮影会の出演者や参加者は18歳以上に限られる。出演者は原則として局部などを隠すニップレスやアンダーショーツを着用した上、見えるような水着は不可とされた。公園管理事務所は性器などを露出する水着の着用やわいせつ行為を確認した場合はやめるよう警告し、応じない場合には許可を取り消し即時中止させることができる。また、禁止される水着やポーズを確認した場合は口頭や書面で是正を勧告する。

 

 手引ではイラスト付きで、高さが10センチ以下の三角水着、幅13センチ以下の四角水着、サイドがひも状のボトムなどのほか、水着を食い込ませたり、ずらしたりするポーズなども禁止した。イラストは素案にあった7枚よりも大幅に多く、可の場合と不可の場合について23枚にわたり詳しく示した。同協会の担当者は「検討会からより具体的に分かりやすく示すよう提言で指摘があった」とした。

 

 同協会は条件の策定に向けて1月に意見募集を行い、「撮影会は性の商品化で、公序良俗に反する」と開催に反対する意見(31件)が最も多く、「県営公園で開催する必要がない」(26件)、「法的根拠のない制限に反対」(15件)などが続いた。

 

 

 

えーと、どう反応したら良いものか・・・

 

 

とりあえず「これまでの提言素案以上に詳細な図解付きで示した手引」に当たってみました。

 

例えば、こんな「図解」が示されています。

 

 

 

「・・・」です。

 

 

ちなみにですが、これに続けてあと2ページ、「(3)チューブ形のトップス」、「3 水着のボトムの場合 (1)ハイレッグ形状のボトム (2)ローライズ形状等のボトム」といった項目がありまして。

 

でも、此処に直接画像を付けてしまうには、水着の形状とか、人のポージングとか、ワタクシ的に、いささか気が引けると言うか何と言うか・・・

 

ちょっと、いえ、かなりヤバいです。エロいです。

 

 

興味のある方は、下のリンクに「翔んで」みてください(と袋綴じ雑誌みたいなことを言ってみる)。

 

「埼玉県営水上公園における水着撮影会 開催の手引き」全文(PDF 2.9MB)

 

 

 

いや、それにしても、まさに「微に入り細にわたる」というハナシで。

 

 

こういうのもね、二言目には「そんな法律あるのか」とか「どっかに書いてあるのか」とか言い出だす子供大人(ワカランチン)が増えたからなんでしょうけれども。

 

でもって、多くの人が眉を顰める公然猥褻もどきの撮影会をやる人達がいたから問題になり、こんな「手引き」を作る羽目になっているのでしょうけれども。

 

 

実際のところ、公序良俗とか、慣習とか社会通念とか、は、長い時間をかけ、そこそこの合意に至っている「郷の掟」でありまして。

 

一応断っておきますが、マスク着用とか、エスカレーターで片方に寄るとかいった、一時の流行で広がる「マナー」とは別のものです。

 

かつては、それに従えない(従いたくない)のなら「村八分」を覚悟しようね、という了解が広く存在してたはずなんですけど、それはもう、言っても詮無いことなんでしょうか。

 

それでも2分のお付き合いだけは残しておくというところが日本人の優しさです。

 

 

●どこまで「翔んで」いくの?

 

上のニュースですが、翌日続報がありました(2024/03/07/18:48配信)。

 

 2月定例埼玉県議会で6日、県土都市整備委員会(杉田茂実委員長)が開かれ、新たに策定された県営水上公園での水着撮影会の開催許可条件について県が委員らに報告した。県は県営公園の指定管理を行う県公園緑地協会に対し、各種イベントの許可に関し点検することや情報共有の在り方について検討し報告を求めていると説明した。

 

 委員らは「今後問題が起きた時に対処できる体制が必要だ」と協会の改善を求めた。県公園スタジアム課は「多種多様な行為(イベントなど)許可を全て棚卸しし、全体を縦横にチェックして必要であれば専門家の意見を踏まえて改善するよう伝えた。また、(協会の)組織内の情報共有、県と協会の情報共有の在り方を検討するよう話した」と説明。協会からの報告を待ち、協議を行う考えを示した。

 

 同課によると、県が同協会に改善の要望を行ったのは2月上旬。同協会が指定管理する公園では本年度、水着撮影会のほか、クルド人の祭りを巡っても当初の公園側の対応の誤りを認め謝罪した経緯があった。

 

 同委員会では水着撮影会の条件について「男性モデルの撮影会が行われた実績がなく、女性モデルを対象としたルール」と説明。委員から男性モデルを含めた検討の必要性が指摘され、県は協会に意見を伝えるとした。

 

 

 

はあ〜、埼玉って、「男性モデルの撮影会が行われた実績」は無いのに「男性モデルを含めた検討の必要性が指摘」されるんですか。

 

県民皆がそうだとは微塵も思っておりませんが、埼玉県というのは、一体、何を見て、何処へ翔んでいこうとしているのでしょう。

 

 

そうそう、この記事では、水着撮影会との関係は不明とはいえ「クルド人の祭り」にも言及していますが、埼玉県(特に川口市)のクルド人、というのも、色々と取り沙汰されてまして。



こちら、産経ニュースのヘッドラインです。全文読むと、唸ります。

 

 埼玉県川口市に集住するトルコの少数民族クルド人と地元住民らの軋轢が表面化している問題で、産経ニュースがメールで募集した読者の声が止まらない。全体の約4割が埼玉県民からで、うち約7割が川口市民だった。「政府も自治体も何もしてくれない」「このまま川口で暮らしていけるか不安」…。クルド人とみられる集団の行為を具体的事例を上げて批判する人も多く、住民の喫緊の課題であることがうかがえた。「多様性」で一括りにして政治がこの問題を放置すれば、社会の分断がかえって進む恐れすらある。

 

 

 

●日本の底力を

 

俗に「郷に入れば郷に従え」と言います。

 

何となく日本国内でしか通用しないことのように思われているようですが、違います。古来、世界中で言われてきたことです。

 

When in Rome, do as the Romans do.

ローマではローマ人のようにしなさい。

 

という諺だってあるそうで。
 
 
昨今の内外情勢を鑑みるにつけ、「多様性を認めよう」とか「グローバルな繋がりを大切にしよう」とか、そういう言葉で人を黙らせようとする勢力が、やはり存在するように思います。
 
もとより、「多様性」や「グローバル」の全てが正しいわけではありません。
 
もちろん、全てがダメなわけでもありません。
 
 
外国籍の人々は、それぞれに理由あって日本にいるのではありましょう。が、日本では日本人のように振る舞ってほしい、というのがワタクシの率直な思いです。
 
同じ思いを持つ人がいるのなら、そこは、もっと正直に口にして良いと思います。
 
 
古来、日本は「移民」に寛容でした。
 
大陸で大国が勃興すると、その圧力、侵略を逃れた人々が、少しずつ、あるいは大挙して海を渡ってきました。
 
当然のこと、大小様々な諍いも起きたことではありましょうが、長い目で見れば、いつの間にか「同化」してしまっています。
 
 
10人に1人なら簡単でも、100人に10人だと難しくなる。
 
それは分かります。何故なら、人は群れるから。
 
 
けれど、それでも、
 
今、ここで、これ以上の移民流入を止めさえすれば、まだ間に合う。
 
「日本文明」を担う者の1人として、そう信じてます。
 
 
とりあえず、日本にいる人、日本に来る人には、日本語を覚えてもらいませう。

 

 

 

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こちら、5年ほど前に出た本です。

 

 

出生率の低下、移民問題、増幅する社会への不信感、自己嫌悪感など、今日の欧州大陸を覆う閉塞感は、人々が自身の社会について議論したり社会変化に対抗する力を弱体化させ、欧州は自壊への道を進んでいる。

著者は、シリア難民や移民問題をめぐって、ベルリンからパリ、ギリシャなど欧州を横断し、難民、歓迎側、拒否側など、様々な立場の人々を取材しながら、独自の視点で、今日の欧州が自らを追い詰めていく人口的・政治的現実を分析。

欧州各国がどのように外国人労働者や移民を受け入れ始め、そこから抜け出せなくなったのか。

マスコミや評論家、政治家などのエリートの世界で、移民受け入れへの懸念の表明がどのようにしてタブー視されるように至ったのか。

エリートたちは、どのような論法で、一般庶民から生じる大規模な移民政策への疑問や懸念を脇にそらしてきたのか。

欧州が前提としてきた「人権、法の支配、言論の自由」をコアとする啓蒙主義以降の西洋近代が潰えていく様を描く。

 

 

 

2箇所ほど引用しておきます。

 

 

第3章 移民大量受け入れ正当化の「言い訳」/「多様性は良いものだ」という道徳・文化的な正当化、から。

 

   だが「多様性」はそれ自体良いものだとする大量移民の擁護論は、ある大きな、それも最近まで口には出せなかった問題点から目を背けている。大半の文化が好ましく興味深い点を持つのと同じように、どの文化にも好ましからざる不愉快な点がやはりあるのである。そして肯定的な側面が最初から強調されたり誇張されたりするのに対し、否定的に側面は何年もあとになってからでなければ認められない(それも認められたらの話だ)。(P.97)

 

 

第18章 ありえたかもしれない欧州/意味が失われてしまったファシズムへの警告、から。

 

   現行の移民問題を収束させ、すでに存在する難題を解決に導くには、欧州の政治指導者たちが過去の誤りを認める必要もある。たとえば、欧州が人口の高齢化を懸念するなら、アフリカから次世代の欧州人を移入するよりも、もっと賢明な政策があるということを。あるいは、人数が少ないうちは多様性にも利点があるが、大人数になると我々の知る社会が消えてしまい、元には戻らないのだということを。彼らはそのうえで、本当はこの社会を壊したくはないのだと力説するかもしれない。こうしたことを認めるのはエリート政治家にとっては辛いことだろうが、欧州の大衆から圧倒的な支持を集めるだろう。

 

 近年、大衆はイミグラント(個人としての移民、あるいは人間としての移民)こそ寛大に受け入れてはきたが、イミグレーション(集団としての移民、あるいは現象・行動としての移民)には抵抗してきた。政治指導者たちが移民(イミグレーション)に不安を持つことは理解できると語るずっと前から、大衆はそのとおりのことを思っていた。社会学者たちがそれを証明する以前から、大衆は移民(イミグレーション)が社会的な「信頼」の感覚を弱めることを知っていた。

 

 それに大衆は、政治家がそれを認める前から、定員を超過した地元校に我が子を通わせるのに苦心していた。医療ツーリズムは問題ではないと聞かされながら、他国から来た人々でごった返す病院の待合室で予約を取るために並んでいたのは大衆なのだ。

 

 大衆はまた政治指導者よりも遥かに以前から、移民(イミグラント)がもたらす利益は無限ではないことを知っていた。そして口に出せるようになるずっと前から、それほど多くの移民(イミグレーション)を受け入れたら自国が根底から変わってしまうだろうと感じていた。彼らは権利を巡る20世紀の激論が、21世紀にまた蒸し返されるに違いないと指摘していた。それに反対する人々が増大するためだ。(P.457~458)

 

 

海外での「先進事例」を後追いするのが得意な我が国ですが、せっかく良い(悪い)見本があるのに、そんなところまで真似することはなかろうに、と思います。

 

 

大部な本ですが、目次だけでも読んだ気になれます。

 

 

[解説] 日本の「自死」を予言する書(中野剛志)

 日本の「自死」

 移民受け入れ正当化の論理

 リベラリズムによる全体主義

 欧州人の精神的・哲学的な「疲れ」と「罪悪感」

 

イントロダクション

 「自死」の過程にある西洋文明

 文明ぐるみの実存的な疲弊

 欧州人のアイデンティティとは何か

 罪悪感を抱える疲弊し死にかけた文化

 

 

第1章 移民受け入れ論議の始まり

 少数派になった「白人の英国人」

 移民労働者を迎えることの意味

 「血の川」演説

 その通りには白人女性は1人しか住んでいない

 強まる「多文化主義」スローガン

 大きく開かれた国境

 予測もコントロールもできない

 

第2章 いかにして我々は移民にとりつかれたのか

 根を張り始めた外国人労働者

 懸念を表明する人々を攻撃する政治家

 コンセンサスからはみ出すことの代償

 「人種差別主義者」と批判されることを恐れて

 終わりのない多様性への賛美

 常に行われる過去の改変

 冷静で意図的な国家的破壊行為

 「ただ甘んじて受け入れろ」

 

第3章 移民大量受入れ正統化の「言い訳」

 移民大量受け入れ正当化の理論

 「経済成長に必要だ」という正当化

 「高齢化社会では受け入れるしかない」という正当化

 「多様性は良いものだ」という道徳・文化的な正当化

 「グローバル化が進む以上、移民は止められない」という正当化

 

第4章 欧州に居残る方法

 ランペドゥーサ島で起こったこと

 「しずく」を「洪水」に変えた「アラブの春」

 移民の誘引になった「マーレ・ノストルム」「トリトン」作戦

 送還しない方が法を守り抜くより楽という現実

 移民ルートの模索は続く

 

第5章 水葬の墓場と化した地中海

 地中海に沈む船

 「大胆王メルケル」のメッセージ

 一枚の写真が反対論を封じる

 島々にあふれる人

 どこにも行き場がない移民キャンプの「ビジター」

 「僕らはアフガニスタン人だ。あらゆるものを見てきたよ」 

 

第6章 「多文化主義」の失敗

 メルケルたちが認めた「多文化主義」の失敗

 欧州の「自己放棄」時代

 「多文化主義」「じゃら「多信仰主義」へ

 欧州の過去を書き換える

 カミュの「大置換」とカール・マルテル

 物議と非難を招いたディストピア的な未来像

 

第7章 「多信仰主義」の時代へ

 労働力不足と人口置き換えの議論

 『悪魔の詩』とスーザン・ソンタグ

 信仰と「コミュニティ政治」

 

第8章 栄誉なき予言者たち

 警報を感じとっていた人々

 宗教への懐疑に極めてナーバスになったスピノザの母国

 イスラム教徒によってよみがえる反ユダヤ主義

 オリアーナ・ファラーチの怒り

 

第9章 「早期警戒警報」を鳴らした者たちへの攻撃

 飛び火する「カートゥーン・クライシス」

 繰り返されたテロ

 ホロコースト以降初の西欧から米国への「難民」

 

第10章 西洋の道徳的麻薬と化した罪悪感

 罪と恥の意識と道徳的自己陶酔

 第二次世界大戦の償い

 歴史的罪悪感に苦しむ欧州人

 「高潔な野人」神話

 アメリカの「建国に伴う罪」

 イスラエルの「建国に伴う罪」

 二重基準とマゾヒストの勝利

 

第11章 見せかけの送還と国民のガス抜き

 国境と国民国家は戦争の原因なのか?

 ハンガリーがつくった壁

 フランスの政治家たちの思惑

 

第12章 過激化するコミュニティと欧州の「狂気」

 テロの原因を求める人々

 隠されてきた犯罪

 移民は良いものをもたらすのか?

 金を払って自分たちを襲わせた史上初めての社会

 

第13章 精神的・哲学的な疲れ

 「欧州疲労」と実存的な疲れ

 基盤となる物語を失った欧州

 信仰に代わる「欧州の価値」はあるのか

 20世紀欧州の知的・政治的な汚染

 「脱構築」によって荒廃した思想と哲学

 「価値判断は誤りである」という価値判断

 東欧は西欧のような罪悪感を抱えていない

 

第14章 エリートと大衆の乖離

 テロ事件の背後に潜むもの

 乖離するエリート政治家と大衆

 批判の矛先は自国民へ

 政治の失態と大衆の失態

 

第15章 バックラッシュとしての「第二の問題」攻撃

 「人道主義の超大国」スウェーデンの罪悪感

 性的被害を隠蔽するメディア

 黒字国から赤字国へ

 彼らは本当に「極右」なのか

 

第16章 「世俗後の時代」の実存的ニヒリズム

 例外だった啓蒙思想の欧州社会

 大きな反動を招く全欧州と米国の動向

 イスラム教を「発見」する若者たち

 啓蒙思想の申し子たちが信じた「進歩」

 安直な脱構築ゲームに没頭している現代の芸術

 「虚無主義者」ミシェル・ウエルベックの本はなぜベストセラーなのか

 訴訟の標的にされ、アイルランドに移住したウェルベック

 問題作『服従』の問いの深さと広がり

 

第17章 西洋の終わり

 押しつけられた慈悲心

 シナゴーグに通うのを避けるユダヤ人

 

第18章 ありえたかもしれない欧州

 「保守主義者」エドマンド・バークが示した可能性

 インクルージョン(包合)とエクスクルージョン(除外)

 意味が失われてしまったファシズムへの警告

 宗教と哲学の間の大きな溝

 

第19章 人口学的予想が示す欧州の未来像

 それはもはや欧州ではない

 同じイスラム教徒からの酷評

 人種問題をてこにした政治

 「特に大きな事件もなく」

 

あとがき(ペーパーバック版)

 「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」

 政治的な戦場としての国境

 誰もが認めないが、誰もが知っていること

 2050年、イスラム教徒人口が3倍に