事此処に至って顧みなければならないのは、主義や党派ではなく姿勢あるいは意志。保守とリベラルとを問わず、彼我の立ち位置や世に流布されてきた言説について、自ら自由に、学び(知り)思う(考える)季節ではなかろうか・・・

 

 

我が国(に限らないという説もありますが)政治(と報道)の世界は、いやはや、何と言ってよいやら、な状況です。

 

 

●本物は誰だ?

 

弱者保護、マイノリティへの共感、

多様性を認め寛容の精神を称揚すること、

 

それらを「ビジネス」としている人達は、確かに存在すると思う。

 

 

けれど、それと同じくらい、

 

 

移民反対、反中嫌韓、

伝統・文化・国柄を強調すること、

 

それらを「生業」としている(ように見える)人達もいて。

 

 

彼等彼女らは、一体全体、1人でも多くの人を説得し、多数派を形成してより良い世の中にしていこうという意志が、本当にあるのだろうかと疑ったりします。

 

単に、既存の枠内で、与えられたポジションに相応しい、あるいは、居心地の良い(と本人がそう感じている)立ち位置で、求められている(と本人がそう考える)発言をしているだけなのではないかと。

 

 

読者・視聴者として、それらを、そういうモノとして楽しむ分には、まあ、それはそれで良いでしょう。

 

政治に関心を持つのは良いことで、また必要なことでもありますし。

 

ですが、お気に入りの誰かの発言の、その全てを信じたり、あるいは細部について本気で怒ったりするのは、時間の無駄だろうという気がしないでもありません。

 

 

●何を何処まで?

 

今日の世では、

人里離れた処で仙人のごとく生きるのでない限り、

政治から自由でいることはできません。

 

そして、

「よりマシな制度」としての民主主義を可とする限りにおいて、

人生の一部分は多数派に従わざるを得ません。

 

 

大事なのは「揺り籠から墓場まで」の、どの部分をどの程度まで政治に委ねるのか、それを決めるのだけは政治(他人)に任せてはいけない、ということで。

 

 

保守であれ、リベラルであれ、

善く言えば啓蒙、悪く言えば洗脳、への憧憬、カタチを変えた支配欲、物欲・金銭欲に駆られているっぽい人がいます。

 

そこは受け手の側が、一歩も二歩も距離を取って見極めないと、少なからず自由を失うことになります。

 

その辺りは、コロナ対策禍で多くの人が実感したことでしょう。


 

●保守より自由!

 

タイトルはご存知の方も多いと思いますが・・・

 

フリードリヒ・A・ハイエク氏の『隷従への道』、その「アメリカ版への序言(1956年)」に、こうあります(原文はワンパラグラフですが、読み易いよう適宜改行しました)。

 

全権を掌握する国家というものを信じる人達との戦いで、真の自由主義者は保守主義者と時に共同戦線を張らねばならぬことは、もちろん当然である。ある状況のなかで、たとえば現在のイギリスにおけるように、自由主義者は自分達の理想に向けて、こうする以外積極的な働きができない。

 

しかし、真の自由主義はあくまでも保守主義とは別個のものであり、この二つが混同されるところに危険がある。

 

安定した社会では保守主義は必要な要素であるけれども、それは社会を前進させるプログラムではない。その家父長主義的、国家主義的、権勢思考の点で、しばしば真の自由主義よりも社会主義に近いものである。

 

さらに短い幻滅の時代を除いては、その伝統的、反知性的、神秘的性向の点で、若者や、世界がよりよい場になるには何らかの変化が望ましいと信じるすべての人々の心に訴えることは決してないだろう。保守主義はまさにその本質によって、必ず既成の特権の擁護者となり、特権の保護のため政府の権力に頼ることになる。

 

しかし自由主義的立場の真髄はすべての特権の否定である。この場合特権とはその正確な本来的な意味、すなわち同じ条件で他の者が得ることのできぬものに対し、国家が授与し保護する権利という意味で理解する。

 

 

冒頭の「国家」を「WHO」に置き換えると・・・

 

なるほど、ワタクシが「保守親父」に対して時折持ってしまう違和感・不信感の源はこういう処に在ったのか、という思いがします。

 

 

 

 

計画経済は必然的に独裁体制を招来し、人びとから一切の自由を剥奪する。ソ連・東欧の共産党の理論指導者があらゆる手段を講じてその思想の伝播を妨げんとした書。今日いよいよその真髄を明らかにする名著。改訳新裝版。

 

 

 

●罔く殆うくならないように・・・

 

こちらもご存知の方は多いと思いますが、『論語』の「為政」からです。

 

学びて思はざれば、則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば、則ち殆(あや)ふし。

 

 

母校の入学ガイダンスで「学びて時に之を習う亦説ばしからずや」(学而)に次いで言及されて以来、折りに触れ思い出すヤツです。

 

 

日々、学ぶ時間もなく思う暇もないであろうコメンテーターとか評論家とか呼ばれる人達が、世の森羅万象について、即時的に、その善悪・正邪を判断しているのを見るにつけ、この人達は、余程自惚れが強いのか、あるいは、相当無責任なのだろうと思ってしまいます。

 

そんなバ◯チン達に付き合い振り回されていると、おそらく、こっちまでバ◯になることでしょう。

 

 

 

 

 

●主義でなく姿勢、あるいは意志

 

知らないことは罪である。

 

それはそのとおり。

 

けれど、

 

何人たりとも一人で全てを知ることなんてできるはずもない。

 

 

ならばせめて、

 

直接自分の生き方に係ること、

 

 

何を着て何を着ないとか、

 

何処へ行って何処へ行かないとか、

 

 

何を食べて何を食べないとか、

 

健康維持のために何をして何をしないとか、

 

 

そんなことまで、WHOのであれ厚生労働省のであれ(仕事になるなら何でも良いっぽい)官僚に決められたくはない。

 

彼等彼女等は、決して責任を取らない。

 

何がしかのカネだかハクだかと引き換えに、彼等彼女等が望む方向の意見だか答申だかを纏め上げる専門家・有識者達も同じ穴のムジナだ。

 

 

そういった自由を脅かすものに対しては、

 

背後に潜むのが保守であれリベラルであれ、断固「否」と言うよ。

 

 

誰かを好きになり、誰かを嫌う。

 

誰かと離れ、誰かと近づく。

 

 

それで失敗しても傷ついても、

 

泣いても後悔しても、

 

 

自ら知り、考えた結果なら、

 

それで良いし、それが良いのだ。

 

 

そういう姿勢、もしくは意志といった「自由」の先にこそ、

 

昨日と同じか、ちょっとだけ良い今日を、

 

今日と同じか、ちょっとだけ良い明日を望む、

 

本当の「保守」が在るのではないか。

 

 

・・・と近頃思う。

 

・・・なんて言ってみる。

 

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「由らしむべし知らしむべからず」を地で行く外務省。

 

誰かが意図したものかどうかはともかく、マスメディアの煽り報道によって人々がワタワタしている間に、このような、個人の自由を確実に削る方向での会議を着々と進めていたわけで。

 

 

以下、公式サイトにあるものをそのまま引いて置きます(但し、赤字は引用者)。
 

 

 世界保健機関(WHO)は、疾病の国際的伝播を最大限防止することを目的とした国際保健規則(IHR)(注1)を定めています。このIHRでは、地域・国家レベルの、国境における日常の衛生管理及び緊急事態発生時の対応に関して最低限備えておくべき能力 (通称:「コアキャパシティ」)が規定されています。このコアキャパシティを十分に満たしていると評価されていた先進国であっても、新型コロナウイルス感染症の流行下では、甚大な影響を受けました。
 

 こうした各国の新型コロナウイルス感染症対応の教訓を踏まえ、2020年から2021年にかけて、WHOの強化を含め、世界の健康危機への対応能力の構築・強化に関し、 WHOにおいて、パンデミックへの備えと対応に関する独立パネル(IPPPR)・国際保健規則(IHR)検証委員会・独立監視諮問委員会(IOAC)における議論を踏まえ、WHO加盟国間で議論が行われた結果、現在のIHR(2005)を改正するための議論を行うとともに(注2)、パンデミックの予防、備え及び対応(PPR)に関するWHOの新たな法的文書(WHOCA+)(注3)の作成に向けた交渉を行うことが決定されました(注4)。
 

 WHOCA+作成とIHR改正に向けた作業は、2024年5月の第77回WHO総会での提出及び採択を目指して、同時並行で作業が進められています。これら2つの文書による枠組みが相互に補完し合うことで、世界の公衆衛生のより良い協調が実現されることが期待されます。

 

 

WHOCA+作成の経緯(PDF)

 

 

 2021年12月のWHO特別総会において、加盟国は、WHOCA+の作成のための政府間交渉会議(INB)(注5)の設置を決定しました。2022年2月に最初の会合が開催され、交渉が継続しています。加盟国は、公平性を考慮し、備えを促進し、連帯を確保し、国家主権を尊重する国際的な合意を求めるとともに(注6)、2024年5月の第77回WHO総会において成果物を提出することを目指しています。
 

 我が国は、パンデミックのPPRを強化するため、国際的な規範や規制を強化することが重要であるとの立場であり、交渉の結果は予断しないものの、本件交渉に建設的に貢献していきます。

 

INB 起草グループ会合(2023年9月)結果概要(PDF)

 

※外務省:パンデミックの予防、備え及び対応(PPR)に関するWHOの新たな法的文書 (いわゆる「パンデミック条約」)の交渉

https://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ghp/page23_004456.html

 

 

いやはや、何とも・・・

 

「ソーラ・レイを30分後に使うというのか。急ぎ過ぎるな・・・ギレンめ、どうしたというのだ」

 

・・・という気分です。

 

 

 

 

 

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『ドン・キホーテ』の中で、ドン・キホーテがサンチョに向けて、こんなことを言う場面があるそうです。

 

  自由というのは天が人間に与えたもうた、最も貴重な賜物のひとつであってな、自由のためなら、名誉のためと同様、生命をかけてもよいし、また、かけるべきなのじゃ。

 

自由は、先人が勝ち取ったものだから、ではなく、天から賜ったものだからこそ、命がけで守れ、という意味になりますかね。

 

 

  天からただ一切れのパンを授かり、天を除いては感謝すべき相手をもたぬ者こそ、さいわいなるかな!

 

今時の学者とか専門家とか(もちろん政治家もですが)が、自由じゃないなあと見受けられるのは、結局、種々諸々の頂きものがあり「感謝すべき相手」が少なからずいるからなんでしょう、と思ったり思わなかったり、です。

 

 

ちなみにこちら、素敵な本ですよ。

 

でも、この桑原さんでさえ「ロシア悪ウクライナ善」に嵌ってしまったようで、ちょっと残念でした。

 

 

「高貴なる人生」を歩むには? 登場人物たちの、魂を震撼させる数々の名言を頼りにスペイン古典文学の金字塔『ドン・キホーテ』を再読、そのヒントを探る。

《不条理の雄叫びが,現代を打つ──「うねる憧れ」が,見事に描き切られている。ドン・キホーテの夢に,著者の生き方が共振しているに違いない。随所にきらめく熱い「祈り」が,この古典を現代に甦らせたのだ。恋する騎士に,わが脳髄は軋(きし)み続けた。》(著述家・執行草舟)