あえて突き放して言えば・・・コップの中で何やってんだ、って感じです。そりゃ、それぞれ、目指すところとか、そこに至る道筋とか、微妙にニュアンスが違うのは分かるけれどもさ。

 

 

参政党の「内紛」(もしくは「分裂」)と言われていることについて。

 

今回は、理論も何もない、ひたすら個人の感想。

体験や経験からくる感覚をダラダラ書いてみただけの、それこそ「日記」です。

 

 

●夫婦喧嘩(?)は犬も食わない

 

当事者、党員、支持者にしてみたら、

確かに看過できないこともあるのでしょう。

 

だから知りたい、

だからぶっちゃけたい、

その心持は解らないでもない。

 

でもね、

「そういった類のことは内々でやっておくれ」

というのが正直なところです。

 

 

世の多くの人が関心をもっているのは、

ジャニーズであり宝塚であり羽生くんであって、

 

「参政党の内紛」とか「日本保守党の勢い」とか、

未だ、両党の存在すら知らない人の方が多いくらいです。

 

例えば、某動画サイトの動画を10万人が視たとしても、

それでやっと1,000人に1人ですよ。

 

そんな中で、何やってんですか。

 

政治は数なんだから、1人でも多くトモダチつくらなきゃだし、

トモダチになれたなら大切にしなさいよ。

 

 

もちろん、

ずっと変わらない人間関係なんて無いわけで。

 

ちょっとした思い違いとか行き違いとか、

あるいは、誰かの工作とか、

 

その積み重ねで、

どうにもならなくなることだって、確かにあります。

 

 

●「せめてサヨナラは飾って・・・」

 

共有、許容、拒絶、

いろんな観点で、譲れる譲れないの範囲があって、

 

それなりに我慢はしてたけど、

結果的に閾値を超えたということなんでしょう。

 

それは仕方ありません。

 

だとしても、

やはり「別れ方」というものがあるでしょう。

 

 

どちらが善い悪いと論うのではなく、

「性格の不一致」とか「音楽性の違い」とでも言って、

静かに離れていけば良いのです。

 

 

したら、ここら辺で、少しだけ権威の口を借りて、の所作を。

 

引くのがちょっと照れてしまうくらいの「古典」ですが、『職業としての政治』に、こんな一節があります。

 

   〜〜〜 ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのようのうな運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する。〜〜〜

 

要するに、

 

別れた女(男)のことや、辞めた会社のことを、

彼女(彼)や、その会社を知る人の前で悪く言うな、って話で。

 

ま、そうでもしないと、

自分を保てなかったり、

 

あるいは、そうすれば、

自分が傷つかずに済むと勘違いしてたりするのかもしれないですけれども。

 

だったら、壁を相手に喋るとか、夕日に向かって叫ぶとか、

せめて、家族との内緒話くらいにしといてくださいな。

 

 

もとより、

 

ワタクシ自身、リアルで知らない人について、

その人柄や人となりについて公に何か言おうとは思いまん。

(たまに、うっかりやらかしてしまいますけれども)

 

あくまでも、言動や行動に関してだけ批判するよう努めています。

(たまに、ついつい行き過ぎることもありますけれども)

 

 

なので逆に、

ジャニーズやら宝塚やら羽生くんやらのことは、

それこそ、放っとくとか、そっとしとくとか、

何で皆さんできんのかね、と思うくらいで。

 

 

ま、とにかく「がっかりした」に尽きます。

 

 

ここでは、

 

(互いの一致点を見つけて世を動かしていく)政治と(人と違うことを言ってナンボの)学問は違うのです。

 

とだけ言っておきましょう。

 

 

●それでも!

 

ただ、ワタクシの見るところ、

 

 

一連の騒動は、

それこそ「コップの中の嵐」みたいなもので。

 

参政党の、特に若い子達(この言い方、我ながらジジくさい💦)は、

哀しい思いはしたにしても、激しく動揺してるわけでもなさそうで。

 

いや、全然分からないけど。

 

 

そこら辺は、

 

あっちで「わーわー」言って、

こっちで「うんうん」頷いて鬱憤晴らすだけの、

 

いわゆる「保守親父」さん達の反応とは、

ちょっと違うようにも見受けられます。

 

 

願わくは、

 

参政党、日本保守党、自民党保守派、

それぞれに「ターゲットの違い」を自覚して、

 

互いの支持者を奪い合うのではなく、

それぞれに新たな保守層を掘り起こしていってほしいなと。

 

 

でないと、此度の騒動、

ただ「敵」を利するだけのものになってしまいますよ。

 

 

では最後に、再び権威の口を。

 

   政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、⎯⎯はなはだ素朴な意味での⎯⎯英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。〜〜〜

 

 

ということで、強引な結論・・・

 

“dennoch!” それでも!

 

・・・の精神で、行きましょう。

 

 

 

政治の本質は何か。政治家はいかなる資質と倫理をそなえるべきか。ドイツ敗戦直後に行われた講演の記録。

 

「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」。マックス・ヴェーバー(1864-1920)がドイツ敗戦直後、自らが没する前年に行った講演の記録。政治という営みの本質、政治家がそなえるべき資質や倫理について情熱を傾けて語る。(解説=佐々木毅)

 

 

 

 

 

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まあその、何と言いましょうか、

 

人間誰しも、忙しくしてると冷静な判断力を失ってしまって、

後で振り返った時「何であんなこととを」的なことをしてしまうのかもしれません。

 

 

彼の著書を読んで「へ〜」と思ったこともあるだけに、このポストには、これまたホントにがっかりしました。それはもう、いろんな意味で。

 

 

 

 

せっかくなんで、ここでも権威の口を借りましょう『職業としての学問』からです。

 

   予言者や煽動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、予言者や煽動家としてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。もし教師たるものがこうした事情、つまり学生たちが定められた過程を修了するためには彼の講義に出席しなければならないということや、また教室には批判者の目をもってかれにたいするなんぴともいないということなどを利用して、それが教師の使命であるにもかかわらず、自分の知識や学問上の経験を聴講者らに役立たせるかわりに、自分の政治的見解をかれらに押しつけようとしたならば、わたくしはそれは教師として無責任きわまることだと思う。〜〜〜

 

 

ネット空間は「街頭」と言えなくもないし「X」の利用者は「公衆」でもあるので、大学での講義でない限りにおいて、まあ、ダメではない、こともない、こともない。

 

ただ、どっちにしても、件のポストは完全に人種(民族)差別だと思いますけどね。

 

 

ここでは、

 

(自己完結が許される)学問と(時と人と場所とを考慮すべき)政治は違うのです。

 

とだけ言っておきましょう。

 

 

 

ウェーバーは学問と政策の峻別を説き,「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する.

 

第一次大戦後の混迷のドイツ.青年たちは事実のかわりに世界観を,認識のかわりに体験を,教師のかわりに指導者を欲した.学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で,ウェーバーはこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し,「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する.それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという.