昨年来、腐っても新聞、それでも産経と耐えてきましたが・・・どうやらここが限界です。スミマセン。半径5メートルの世界で生きることにします(←ホントか?)。
私事ながら、昭和の末、20歳凸凹の頃、一人暮らしを機に産経新聞(当時「サンケイ」)を購読し始めました。
⚫長いお付き合い、半身を失うような?
以来30有余年、東京(川崎)に住んでいた独身の日々、地元に戻って結婚した後も、ずっと付き合ってきました。
大仰な表現をすれば、人生の半分以上を産経で過ごしてきたわけで。
(「産経新聞の1世紀」産経新聞7/6大阪6版より)
しかしながら、その間、情報環境は激変しました。
産経の「正論路線」を支えてきた(とワタクシが思う)記者の多くが退職し、代替わりしています。
有り体に言えば、読む(読ませる)記事が、ぐんと減りました。
「彼」ではなく「私」の方が変わったのかもしれませんが・・・
新型コロナ[対策]禍、米国議会襲撃事件、ウクライナ侵攻・・・編集スタンスがワタクシの考えとズレてる事自体は良いんです。
それは当たり前のことですし、実際、過去にもありました。
とは言え、ここのところ、特に上の3点については、なんぼ何でも偏っているのではないかと。
報道機関でありながら、自身が与したい「物語」を補強することに固執しているのではないかと。
マスク・ワクチンを含め感染対策への懐疑論はほとんど取り上げず、トランプさんへの評価とバイデンさんへの批判はあまり見受けられず、ウクライナの発表は善意で受け止めロシアのそれは悪意で切って捨てる。
そんな色合いが濃過ぎるように思うのです。
「彼」ではなく「私」の方が偏っているのかもしれませんが・・・
⚫今の「彼」は、例えばこんな感じ。
コロナ関連のことはもうきりがないので、置くとして。
拙ブログで縷々書いてきたことで、産経から得た情報はほとんどありません。
例えばトランプさんについて、ここ1ヶ月はこんなのが続きました。
紙面の見出しのみ。参考までに、同じ内容のネット記事リンク(有料記事あり)を添えてますが、別に読まなくて良いです。
7月1日
専用車後席からハンドルに手
襲撃事件高官側近が証言
トランプ氏 議会乗り込み図る
7月8日
側近ら証言 落選認識 支持者から資金集め
トランプ氏「暴走」次々
不正主張「マーケティング戦術」
7月15日
トランプ氏 極右団体と連携か
米議会襲撃 関係者が証言
7月24日
「トランプ氏に自責の念なし」
米議会襲撃
下院公聴会 元側近ら証言
いずれも米国議会公聴会の記事なんですが、こんなの、日本の読者が知らなきゃならないことですかね。トランプさん首謀説を前提とした「検察側の証人」はこう言ってます、以上の意味はないように思うのだけれども。
中間選挙を控え、トランプさんを下げてバイデンさんを上げる。それで利益を得る人々と同じことを、何故、わざわざ産経がするのでしょう。そんなのは、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストに任せておけば良いんです。
ウクライナ侵攻絡みでは、ちょっと笑ってしまう見出しもありました。
7月3日
サハリン2 露に移管
大統領令 日本制裁の報復か
7月4日
露、別の資源開発事業も標的か
サハリン2 日本との対立鮮明
エネルギー武器 欧州にも圧力
いやいや、「か」って何です? スポーツ新聞の無責任見出しです「か」?
だいたい、「ウクライナとともにある」と表明した日本を、ロシアが敵視するのは当然ですよね。それ込みで「正義を貫け」と言ってたんじゃないんですか?
ま、そんなわけで産経さん、日々、ワタクシを崖っぷちに追い込んでくれたと言いましょうか、天秤秤の片方に続けざま重りを乗っけてくれたと言いましょうか。
⚫ちょっとだけ真面目なハナシ
新聞倫理綱領に曰く・・・
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
・・・と。
ぶっちゃけ、もはや産経も「あらゆる権力から独立したメディア」たりえず、よって国民の「知る権利」を保障するものではなくなってます。
と同時に「正確で公正な記事と責任ある論評」は目に見えて減っているし「なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断」をしているとも思えません。
まずもって広告主の顔色を窺い、忖度しているであろうことは疑いようがありません。
さらに曰く・・・
正確と公正
新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容
新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
・・・と。
「論評は世におもねらず、所信を貫くべきである」とか「自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する」とか、いっそ読んでるこっちが赤面してしまいます。
⚫「半径5メートル」の幸せ
世の中、多くのことを、知らないよりは知っていた方が良い。
けれど、大抵のことは、知らなくても不都合なく生きていける。
メディアというのは、
本質的に事件・事故、危険・危機を飯のタネにしているわけで。
天下泰平・平穏無事ではおまんまの食い上げ。
あれもこれも「問題」だと騒ぐの生業としてまして。
ウイルス・細菌は太古から存在し、
豪雨・熱波も度々発生し、
オカシナ人間がたまにいて、
それもこれも、
驚くには当たらない。
半径5メートルの外から聞こえてくる事件・事故、危険・危機は、
いっそ話のネタと心得ておくことにしよう。
バタフライ効果って言葉もあるけどね。
ということで、産経新聞7月末をもってサヨナラ。
これも一応、断捨離?
あるいは、かなり気が早いけど終活!
でも、新聞全く読まないっていうのも、そこまでの踏ん切りはつかないし、やっぱりちょっと寂しいから・・・しばらく東愛知新聞で。
本物になりきれない仮面の隠者さん。
半径5メートルならぬ、半径50キロの、手触り感ある情報の中で生きてみます。
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事ここに至る前史? 面映いことですが、揺れる想いの記録です。
言うまでもなく、情報の速さという点では、新聞はネットにかないっこありません。
ならば、新聞は新聞にしかできないこと、すなわち解説とか一覧性とかに特化していく他ないでしょう。それでようやく、それなりの価値を維持することができる、かもしれない、といったところだと思います。
が、現実には、無意味にネットに対抗し、あるいは、真似をしようとしてます。
発行部数を維持するため、なんでしょうけど、朝日であれ産経であれ(ついでに中日であれ)自社のコアな購読者層にウケの良い紙面を作ろうとしているのが透けて見えちゃうんですよね。
で、却って購読者を減らし続けているっていう・・・
情報の受け手は「見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞く」(知る権利?)ばかりでケシカラン、としばしば批判されます。それ自体感心しませんが、ある程度、そういうものだろうとも思います。
しかし情報の送り手が、負けず劣らず「聞かせたいことを話し、読ませたいことを書く」ようになり(報道の自由?)、さらには「見せたいように切り取り、聞かせたいように貼り付ける」ことをも厭わなくなりました(表現の自由?)。
一方で「見せたくないものは撮らず、聞かせたくないことは話さない」てなことをしているという指摘もあります(報道しない自由!)。
常々「自由には責任が」とか「自由にも節度が」とか言ってる同じ人達がそういうことしているんですから、困ってしまいます。
東日本大震災における福島第一原発被災事故以降も、放射能・放射性物質に関しては比較的冷静、科学的に報道している産経新聞。
なのに、新型コロナウイルスについては他紙同様の「ばっかり報道」であり、恐怖を煽っているとしか言いようがりません。
新聞購読者の多くを占める主に高齢者の不安に寄り添っているつもりなのかな?
米大統領選挙の方は、ネット発の情報を「陰謀論」として片付けその内容については全く取り上げない。
例えばニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト等、米国内のいわゆるリベラルメディアの受け売りに終始して良しとする姿勢が透けて見えました。
バイデンさんの「ヤバイデンなハナシ」は、どういうわけかひとつも取り上げないし。
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ただですね、そうは言っても近頃は、紙の新聞が他メディアに比較して優位であるはずの「一覧性」がどうにもこうにも怪しい気配ありでして。
自らの路線、社論を押し出すのは良いんですが、先に述べたとおり、そこに沿わない情報をほとんど取り上げないっていうのが困っちゃうんですよ。
新聞がソレをするのかと。
それこそ、自ら意識して別角度の情報を取りに行かないと一定方向に偏ってしまうネット媒体と同じになってしまうわけで。
そのくせ、情報はどうしたって一歩遅れるわけで。
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「最後」に見た「彼」の笑顔?
で、何か、そんな気分。
「最後の一滴」(これはもう「別れ」を決め販売店に連絡した後なんだけど)。
(産経新聞7/30日大阪6版)
「はぁ、そうですか」ですわ。
「新聞読む頻度が高いほど好成績」――新聞購読と各教科の正答率とに相関関係があるってことで、これはNIE(教育に新聞を)関係でもしばしば目にする物言い。
子供の成績を餌に「だから私を見て(愛して)」とやっきになってる、みたいな?
もちろん、全否定はしませんが、現状「ほとんど、全く読まない」児童・生徒が小学校72.7%、中学校78.6%いる中で、の話ですからね。
てか、記事中にある数字、「小6国語の正答率」は「小学校国立」の、「中3数学」は「中学校公立」の間違いだと思うぞ。
だいたい、(モノを読むこと自体に慣れることで)成績を良くしようと考えるなら、それが新聞でなくても、広く「紙の読書」くらいに捉えて良いんでないかい?
いや、むしろ新聞でない方が良いんでないかい?
あるいは、あえて数日前の新聞を呼んで「とばし」「あれかし」「ばっかり」を実感するという手もあるかな?
ちなみにこの話、原典に当たると、新聞や読書以外にも、色々と興味深い「相関関係」が見られて、それなりに面白いです。