〈近代以降、紛争時に繰り返されてきたプロパガンダの真相を、ポンソンビー卿『戦時の嘘』をふまえて検証する必読書。〉(『戦争プロパガンダ 10の法則』帯より)

 

 

立夏です。

 

それなりに暑くとも、空気は爽やか。外は気持ち良いです。

 

 

が、それなのに、100人中96人くらいがマスク着用。

 

 

いやもうね、皆さん、自覚なき酸素欠乏症、思考力低下でおかしくなっているとしか思えませんね。

 

そんなことだから、種々諸々「プロパガンダ」に踊らされるんですよ。

 

あ、いや、踊らされたから思考力を失ったのかな?

 

 

ま、どっちでもいいか。

 

 

という、いささか強引なマクラの今回、「本の森」です。

 

 

⚫ 『戦争プロパガンダ 10の法則』

 

アンヌ・モレリ/永田千奈訳 草思社文庫(2015)

 

 

「戦争は相手が望んだ。我々ではない」第一次大戦から現在に至る、世界のあらゆる紛争でまき散らされる正義捏造、自国正当化のからくりを歴史学者が読み解く。

 

 

 

というモノ。

 

著者アンヌ・モレリさんはベルギー生まれの歴史学者。

 

内容としてはアーサー・ポンソンビー(「イギリス屈指の高貴な家系」で「父がヴィクトリア女王の専属秘書だった」という人)が書いた『戦時の嘘』(第一次世界大戦中のプロパガンダに関する考察)に刺激を受けて書いたものだそうです。

 

 

⚫ ポンソンビー卿に学ぶ

 

そんなわけで、まずは「はじめに」にあたる「ポンソンビー卿に学ぶ」から引きましょう。

 

   ポンソンビーは平和主義者であり、当然のことながら、戦争を残虐極まりない、暴力的で野蛮な行為として捉えている。だが、彼が自著で語っているのは、それだけではない。第一次大戦中、イギリス政府は、老若男女を問わず、あらゆる国民に義憤、恐怖、憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵をかき集めるため(当時、イギリスでは兵役が義務ではなかった)、「嘘」をつくりあげ、広めた。彼はその「嘘」を暴こうとしたのである。

 

だそうで。

 

本論は、具体的には、下記のような構成です。

 

  ポンソンビーは、戦争プロパガンダの基本的なメカニズムについて論じ、戦争プロパガンダは、十項目の「法則」に集約できると書いている。

 そして、この十項目を一章ずつたどっていこうというのが、本書の主旨である。さらに、各項目ごとに具体例をあげ、ポンソンビーの指摘した状況が第一次大戦に限ったものではなく、現存する政治システムのなかでも、紛争が起こるたびに繰り返されている実情を明らかにしていく。

 個々の発言意図を探るつもりはない。誰が真実を語り、誰が嘘をついているか、誰が善人で、誰が悪人かをつきとめようというわけでもない。ただ、あらゆる戦争に共通するプロパガンダの法則を解明し、そのメカニズムを示すことが本書の目的である。

 

 

⚫ ハズレ無し?「10の法則」


そんなわけで「10の法則」――紛争中、あるいは、その前後を通じて指導者が口にし、メディアが伝える「決り文句」――がそのまま章立てになっている目次を。

 

 

ポンソンビー卿に学ぶ

 

第1章 「われわれは戦争をしたくはない」

第2章 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」

第3章 「敵の指導者は悪魔のような人間だ」

第4章 「われわれは領土や覇権のだめではなく、偉大な使命のために戦う」

第5章 「われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」

第6章 「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」

第7章 「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」

第8章 「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」

第9章 「われわれの大義は神聖なものである」

第10章 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

 

ポンソンビー卿からジェイミー・シーまでの流れをふまえて

 

訳者あとがき

 

原註

 

 

いやいや、いやいや、ですね。

 

ロシアによる「ウクライナ侵攻」以来、新聞・ネットニュースの見出しからテレビの字幕に至るまで、上記の「法則」に当てはまらないモノを探す方が難しそうです。

 

 

本では、それぞれの事例として第二次大戦以降の様々な国際紛争にも触れ、その時時の言葉なり報道なりが取り上げられています。

 

まさに「あー、そう言われれば、そうだったな」が目白押し。面白いです。

 

 

なので、興味のある方には実際に手に取っていただくとして、ここでは、とりあえず読んだつもりになってもらって、一気に「あとがき」へと参りましょう。

 

 

⚫ ジェイミー・シーまでの流れをふまえて

 

「ポンソンビー卿からジェイミー・シーまでの流れをふまえて 」というタイトルで、プロパガンダについて語るときに行き着く4つの疑問について書いてます。

 

(ジェイミー・シーというのはユーゴスラビア空爆時のNATO報道官だった人だそうです)

 

  戦争プロパガンダの法則について考えてゆくと、最後には次のような根本的な疑問にたどりつく。

●われわれは、今なお、先人たちのように情報をうのみにしてしまうだろうか。
●こうした法則は意識的に実践されたのだろうか。
●真実は重要だろうか。
●なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか。

 

 

う=む、いずれの疑問も、簡単に答えが出るものではありませんね。

 

 

われわれは、今なお、先人たちのように情報をうのみにしてしまうだろうか。

 

そう問われれば、多くの人は「そんなことはない」と否定するでしょう。

 

ただ、それでも「善の側」「正しい勢力」にいたいという欲求は抑え難く・・・

 

  「われわれは善の側、しかも脅威にさらされている善の側にいる」という催眠術をすべての人間にかけようとするのは、ほとんど病的な欲求だ。誰であれ、自分が善の側にあり、悪に対してフェアな戦いを挑んでいると思い込むこと、思い込ませることは心地よい。自分が誠実であると思い込み、正当性のあるイデオロギーをつくりあげてしまう。

 

 

こうした法則は意識的に実践されたのだろうか。

 

そりゃ、意識的にです。少なくともプロパガンダ発信の中心にはそういう人物(達)がいて、周辺には、そうとは知らず加担してしまう善良な人と善良でいたい人とがいて、ということだろうと思います。

 

 

真実は重要だろうか。

 

重要です。

 

重要なんだけれども、残念ながら、真実が那辺にあるのか分からないことの方が世の中には多いというのが、これまた真実で。

 

 

なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか。

 

これは・・・戦争において(絶対的)「正義」はあるのか、という問いにも通じるものがあって・・・

 

   さて、四つ目の疑問、懐疑主義の危険性について考えると、結局、相対主義の危険性について考えることになる。彼らはみな同じ言葉を口にし、同じ理論を語るが、すべてひとまとめに論じていいのだろうか。

 

そう、何しろ「同じ言葉」「同じ理論」であっても「同じコト」を言っているかというと、そうでもない場合が多々あったりで。

 

 

そもそも「正義」と言っても結局は相対的・個人的なモノでしょ、という人と、もともと絶対的・普遍的なモノをこそ「正義」と呼ぶ人がいて、というね・・・

 

しかも、平時、有事、戦時・・・置かれた状況への感受性、微妙な温度差から、他者に対して激しい「反応」を示す人も出て来たりで。

 

   多くの場合、人々は、敵陣に懐疑主義があるのを喜び、自分の陣営ではそれを歓迎しない。だが、超批判主義を通せば――たとえ、否定主義のような嘆かわしい愚直さに行き着こうが――良心を殺すことにはならない。行き過ぎた懐疑主義が危険であるとしても、盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアは日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。

 

確かに、疑って動かないことの方が、信じて動くよりも害が少ない、場合がある、という気はします。

 

 

   国内に社会的な対立がある場合にも、ポンソンビーの指摘した第三の法則(敵のリーダーは悪魔のような人間だ)を使って、人々の賛同を得ようとするケースが多い。たとえば経営者寄りの労働組合から離脱して新しい組合をつくろうとするリーダーは、経営陣側によって残忍な怪物に仕立てあげられる。メディアは、彼らのことを挑発者、煽動者、首謀者、ほらふき、不届き者、グル、悪党、犯罪者、陰謀家、テロリストと罵る。さらには、好ましからざる形容詞を付け加える――「偏狭な」「粗野な」「横暴な」「暴力的」「横柄な」「無責任な」……。

 

あー、それこそツイッターなんか、そういう形容詞のオンパレードだなあと。

 

 

⚫ 疑うのがわれわれの役目だ。

 

ということで。

 

(「われわれ」って誰? とか思いつつ)今回の結論・・・

 

   疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。

 

 

もちろん「他者のみならず、自己をも疑え」ですけれども。

 

 

 

 

 

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おまけ、というわけではないのですが「訳者あとがき」からも。

 

   いつの時代もひとは、憎悪を掻き立てられ、正義に奮い立ち、弱者に同情する。それはいかにも「人間らしい」感情の動きであり、文化を支える情熱ともなる。プロパガンダにまったく心を動かされない人間がいるとすれば、よほどの冷血漢か、利己主義者だろう。感情を責めるつもりはない。だが、人間らしい心を失うことなく、そこに流されない。そんな姿勢が必要なのだ。『熱い心と、冷たい頭を持て』と言ったのは、イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルだが、情報の海で溺れそうになったとき、感情に流されそうになったとき、本書がふと足を止め考えるためのヒントになれば、訳者として嬉しい限りである。

 

 

マスクしない人への憎悪ではなく、

 

マスクしろよという正義でもなく、

 

強者の道具にされた弱者に惑わされず、

 

いい加減・・・

 

常時マスク着用の必要性とか弊害とか、ついでに人の目とか

 

・・・疑っても良いんじゃない?

 

 

という、いささか強引なシメの今回、「本の森」でした。

 

そんな「蛙始鳴」(かわずはじめてなく)の候です。