例えばテレビ。視てもらってなんぼの世界。
視聴率を稼ぐために、安心材料よりも不安材料を多く取り上げるのは、まあ、今に始まったことじゃない。
いわゆるタレントさんはもちろん、一応「専門家」という肩書が付いていたとしても、そういうことは、画面いっぱいに「個人の感想です」という字幕を被せて言いなさい、みたいな種類のことをしたり顔で垂れ流してきます。
で、概ね「コロナ怖い」一辺倒。
例えば新聞。読んでもらってなんぼの世界。
いわゆる販売店・宅配という仕組みに支えられた人々が、それなりに取材し、記事を書き、取捨選択し編集していたのも今は昔。
もはや、すっかり斜陽産業であり、稀に光る解説記事があったりするものの、ただ活字になっているだけで、遅めのネットニュースを読んでるのと変わりないな、なんて感じることも多々あります。
で、やっぱり「コロナ怖い」一辺倒。
そしてネット。クリックしてもらってなんぼ世界。
玉石混交ながら、確かに、テレビ・新聞が報じない多種多様なニュースを見つけられます。
けれど、しばしば指摘されるように、ネットの海は、自ら能動的に泳ごうとしないと、結局、知らず知らずのういちに一定の方向へと流されてしまいます。
コロナ怖いの人の端末には「コロナ怖い」な情報が溢れ、コロナ大したことないの人の端末には「コロナ大したことない」な情報が提示されます。
結果、コロナ怖いの人はそっちの方向で頑なになり、コロナ大したことないの人はこっちの方向で先鋭化するという・・・
そんなわけで、この新型コロナ騒動、コロナ狂騒曲に関しては、正直なところ「もうどうでもいい」「どうとでもなれ」みたいな、なげやりな気分になることもしばしばの今日此の頃。
ワタクシ自身、親しい人に「医療現場が大変だし、自粛も緊急事態もアリだよね」とか「ワクチンに期待してるけど、まだまだ先っぽい」とか言われると「あー、もう住んでいる星が違うんだな」くらい、彼我の寄って立つ場所が遠いことに絶望したりもします。
でも、そこで諦めちゃったら、両論併記の大原則を放棄して久しく、自らがその原因をつくっておきながら「分断」がすすんでいると嘆いてみせるテレビ・新聞の人と同じになってしまいますからね。
マスク着用3分しか持たなくて、このままニューノーマルが定着してしまったらもう生きていけなくなる身としては、いっそノーマル星へ旅立つか、あるいは、アブノーマルに支配されているこの星で抵抗し続けるか、しかないわけで。
何とかかんとか自分を奮い立たせて頑張ります。です。
で、例えば科学論文。これだって、やっぱり読まれてなんぼ。
仮説と検証の世界ではありますが、それを支えているのは製薬会社だったり、医療機器メーカーだったりします。
新型で未知なるもの、そして、できれば問題を指摘し、恐怖感を突いて、結果的に薬や機器の需要を喚起する論文の方が、提出も受理も出版(公開)も多くなるってもんでしょう。
確かに「マスク着用に感染予防の効果あり」という趣旨の論文は数多くあります。
とはいえ、こういう論文だってあるんです。
【デンマークのマスク着用者におけるSARS-CoV-2感染を防ぐために他の公衆衛生対策にマスク推奨を追加することの有効性】
合計3030人の参加者がランダムにマスク着用の推奨に割り当てられ、2994人がコントロールに割り当てられました。4862が調査を完了しました。SARS-CoV-2の感染は、42人の参加者が推奨するマスク(1.8%)と53人の対照参加者(2.1%)で発生しました。グループ間の差は-0.3パーセントポイント(95%CI、-1.2〜0.4パーセントポイント; P = 0.38)(オッズ比、0.82 [CI、0.54〜1.23]; P = 0.33)でした。フォローアップの損失を説明する多重代入は、同様の結果をもたらしました。観察された差は統計的に有意ではありませんでしたが、95%のCIは、感染の46%の減少から23%の増加と互換性があります。
上は機械翻訳でちょっと乱れた日本語になってますが、つまり、3030人をマスク推奨、2994人を対照(マスクなし)として調査。計6024人のうち4862人で調査を完了しました、と。
したら、マスク推奨集団で42人(1.8%)、対照集団で53人(2.1%)が「感染者」が出ましたよ、と。
その他、何やら難しいことがゴニョゴニョと書かれていて正確なところは分かりませんが、要するに「他の公衆衛生対策にマスク推奨を追加することの有用性」はほとんどない、という趣旨の論文ということで良いと思います。
ちなみにこの論文、調査自体は20年4月から6月のことなんですが、提出した時は、もっと強い調子で「マスク着用の効果はない」と断言していたものを、色々と表現薄めたり保留着けたり、紆余曲折あってようやく掲載に至った、という話です。
何なら、こういう論文だってあります。
【コロナの子供たちが「Co-Ki」を研究:子供たちの口と鼻の覆い(マスク)に関するドイツ全土の登録の最初の結果】
2020年10月26日までに、レジストリは20,353人によって使用されました。この出版物では、合計25,930人の子供に関するデータを入力した親からの結果を報告します。マスクの平均着用時間は1日あたり270分でした。マスクの着用による障害は、68%の親から報告されました。これらには、過敏性(60%)、頭痛(53%)、集中力の低下(50%)、幸福感の低下(49%)、学校/幼稚園への行きたがらない(44%)、倦怠感(42%)、学習障害(38%)が含まれます。 )および眠気または倦怠感(37%)。
基本的に、子を持つ親に対する聞き取り調査ですが、68%の親が何らかの障害(弊害)を訴えている、ということですね。
何にしても、マスクの効果を謳う話は腐るほど溢れていて、マスクの弊害を指摘するものは黙殺に近いものがあります。
だいたい、「マスクが感染予防に有効」というのは既に確定した「真実」のように言われてますが、そんなことはありません。
実際、それ系の論文は大抵「飛沫の拡散、吸引を防ぐ効果」を確認しているもので、肝心の「その飛沫にウイルスが含まれているのか」すなわち「無症状者が他者を感染(というか「発症」)させるほど大量のウイルスを排出しているのか」という点が問われていませんね。
そもそも、無症状者が感染源になる、という方向の論文は、実は2、3本しかないらしいんですが、新型コロナの場合、初期の症例があまりにセンセーショナルだっただけに、そりゃ大変だと世間は受け取り、件の論文は(その詳細を抜きに)度々紹介され「だから、いつでもどこでもマスク着用」となりました。
発症前でも他者を感染させる可能性があること自体は、いわゆる風邪やインフルエンザその他の感染症でも、ままあることです。でなければ、毎年ほとんどの人が風邪を引き、1千万人がインフルエンザを発症するはずもありません。
だったら、こんな論文はどうでしょう。
【中国武漢の約1,000万人の居住者における封鎖後のSARS-CoV-2核酸スクリーニング】
本研究では、無症候性の陽性症例からのサンプルでウイルス培養が行われ、生存可能なSARS-CoV-2ウイルスは検出されませんでした。無症候性の陽性症例のすべての密接な接触は陰性であり、この研究で検出された無症候性の陽性症例が感染性である可能性は低いことを示しています。
いわゆる無症状感染者(PCR検査陽性者の多くがコレ)からは生存可能(感染能力がある)ウイルスは検出されない、と。
いわゆる無症状感染者(PCR検査陽性者の多くがコレ)が感染能力がある、つまり感染源になる可能性は低い、と。
この論文も、調査自体は20年の5月から6月のことで、提出まではもちろん、そこから掲載まで、長い時間を要しています。
その発生から1年余り「皆さん、いい加減冷静になってくださいよ」って思うんですが、やれ「患者の7割以上が後遺症」だ、やれ「感染力1.7倍の変異株」だと、それこそ、次から次へと「怖いハナシ」が出てきまして。
何と言いましょうか「コロナ怖い」に資する論文はあっという間に掲載(公表)され、またたくまにマスメディアで拡散されるのに、実は「コロナ大したことない」じゃんな論文は、長い時間をかけ厳しく審査され、ようやく掲載されても世の中的には完全スルーみたいな流れが出来上がっちゃってますね。
したら、一般民間人としては、検索かけるきっかけすらないわけで。
う〜ん・・・
誠実は研究者ほどバカを見る。
・・・みたいな感じでしょうか。
でもって「コロナ大したことない」「何もしなくて良い」なんて話には・・・
研究費を出してくれる人もいません。
・・・といったところですかね。
テレビも、新聞も、ネットも、研究者の世界も、さらには「民主主義制度」下の政治界隈も、ついでに言うと、アナタもアタシも・・・
つまりは、全てカネで動いているのかしら?
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半ばバイブルのように引用され続けている「無症状者による感染事例」論文と、上の「無症状者による感染事例はない」とする論文とについて、こちらの動画で詳しく解説されています。
新聞・テレビといったレガシー(というかオールド?)メディアが「報道しない自由」を謳歌しているのは周知の事実です。
ネットメディは、それを告発、あるいは対抗するツールとして台頭してきたはずなのに、ここに来て、レガシーを凌駕したという驕りからくるのか何なのか「発言させない自由」を行使し始めました。
トランプ前大統領を始めとする米国「保守派」の面々が、相次いでツイッター・フェイスブック等のアカウント停止を喰らい、発言する機会を奪われています。
そして、何故か日本のマスメディアは(産経新聞を含めて!)その事について一応批判はするものの「やむを得ない」「仕方ない」とかで、つまりは容認。不寛容な行為に対してやたら寛容です。それこそ怖い話です。
「真実」は多数決(しかも不正込み?)で決めるものじゃないでしょう。
ひょっとして皆さん、いつもマスクしてて酸素不足、思考能力低下してるんじゃないでしょうか。
以下、トランプさんの退任演説の締めです。
Now, as I leave the white house, I have been reflecting on the dangers that threaten the priceless inheritance we all share. As the world’s most powerful nation, America faces constant threats and challenges from abroad. But the greatest danger we face is a loss of confidence in ourselves, a loss of confidence in our national greatness. A nation is only as strong as its spirit. We are only as dynamic as our pride. We are only as vibrant as the faith that beats in the hearts of our people. No nation can long thrive that loses faith in its own values, history, and heroes for these are the very sources of our unity and our vitality.
今、ホワイトハウスを去るにあたり、私は我々が共有する貴重な遺産を脅かす危険性について考えています。世界で最も強力な国家であるアメリカは、常に世界からの脅威や問題に直面しているのですが、私たちが直面している最大の危険は、自分自身への自信の喪失、国家の偉大さへの自信の喪失です。国家の強さは精神の強さに比例します。誇り高い心は力強さを生み出すのです。私たちは、心の中に鼓動する信仰が強ければそれだけ活力が溢れるのです。自国の価値観、歴史、英雄への信頼を失った国家が長く繁栄することはあり得ないのです。
What has always allowed America to prevail and triumph over the great challenges of the past has been an unyielding and unashamed conviction in the nobility of our country and its unique purpose in history. We must never lose this conviction. We must never forsake our belief in America. The key to national greatness lies in sustaining and instilling our shared national identity. That means focusing on what we have in common, the heritage that we all share. At the center of this heritage is also a robust belief in free expression, free speech, and open debate. Only if we forget who we are and how we got here could we ever allow political censorship and blacklisting to take place in America. It’s not even thinkable. Shutting down free and open debate violates our core values and most enduring traditions.
アメリカが過去に大きな困難に勝利し、世界を制覇してきたのは、わが国の気高さと、これまでの我々の目的に対する不屈の、誇り高い信念です。私たちはこの信念を決して失ってはなりません。私たちは、アメリカに対する信念を決して捨ててはならないのです。国家の偉大さへの鍵は、私たちの中の国家のアイデンティティを維持し、子孫に手渡すことです。それは、私たちが共通して持っているもの、すなわち全員が共有している遺産に焦点を当てることを意味します。この遺産の中には、表現の自由、言論の自由、開かれた議論に対する確固たる信念も含まれます。自分たちが誰であるか、どのようにしてここに来たのかを忘れてしまっては、アメリカで政治的な検閲やブラックリストに載ることを許してしまうでしょう。そんなことはあってはなりません。自由で開かれた議論をシャットダウンすることは、私たちの核となる価値観とこれまで守って来た伝統を覆すことです。