確信犯的に強行したかと思えば、3日で中止。グダグダした挙げ句、会期終了(10月14日)間際になって、5・6日のうちに再開するとか、いや、8日以降だとか。
あくまでも原状復帰を求める「表現の不自由展・その後」実行委員会と、何らかの注釈(責任逃れ)提示を加えたい「あいちトリエンナーレ2019」実行委員会との間で、折り合いがつかない、ま、要するに揉めているのでしょう。
私的には、ぶっちゃけ「どうとでもしてくれやい」という気分になっています。
何しろ、展示再開 or 中止のまま終了、どちらに転んでも「表現の不自由展・その後」側の「勝利」なんですから。
展示再開ならば「日本にはこんなにも表現の不自由がありますよ」という彼等の「展示意図」および「作品」が県に「認められた」ということになるし、
展示中止のままであれば「ほら、ご覧なさい。やっぱり日本は不自由な国なんだよ」とアピールすることでしょう。
愛知県民の一人として「してやられたな」と思います。腹立たしい限りです。
ま、これはね、
およそ芸術方面に明るいとは言えない怪しげな人物を芸術監督に任命したところから既に間違っていたわけで、次に、県職員もどこかの段階で展示内容を知ったはずなのに結果として放置したまま、挙げ句、脅迫を理由に中止しておきながら犯人が捕まった段階ですぐ再開するというのでもなく・・・
ここのところのフラフラぶりを見るにつけ、トップたる県知事の罪は途方もなく大きいなと思います(この記憶、次の選挙に活かします)。
※参照過去記事
→他人(の金)をアテにする時、不自由になるのは当たり前・・・あいちトリエンナーレ2019
ということで、今回は「そもそも論」です。
⚫此処で問われ脅かされているのは「表現の自由」ではなく「公共の福祉」の方でしょ。
もうね、あーじゃこーじゃ(屁)理屈はいいですから、改めて、まっさらな気持ちで、これを見てください。
会場にて「展示」されていたという「映像作品」です。
注1:一部、というか、全編にわたって不快な表現が含まれます。
注2:一部の、というか、ほとんどの方のお気持ちを害する可能性があります。
では、どうぞ!
朝日新聞などは「昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」などというヌルい表現をしてます(それもまた「自由」なのかもしれません)が・・・一応解説。
冒頭しばらくは動きが少なく、昭和天皇の肖像が「燃えている」状態ですが、1分くらいから画面にバーナーが入ってきまして、はっきりと人為的に「燃やしている」のが分かります。
2分過ぎ、別の絵に切り替わります。何かを見つめる女性とのオーバーラップ(ここだけは「アート」と言えなくもない?)から、やはり陛下の肖像が「燃えて」いますが、2分20秒、またもやバーナーを使い、人の手で「燃やして」います。
3分30秒、トドメの一撃。どなたの足か存じませんが、残された灰を踏みつけてます。
だからですね、こういう「表現」をしたい人も、そりゃいるんでしょう。「自由」にしていただいて結構です。発表の場くらい、他に(!)いくらでもあるでしょうし。
肝心なのは、多くの人々が、例えばこの「映像作品」を、自分のお金を払ってでも見たいと思うか、自分のお金を使ってでも人様に見せたいと思うか、ですよ。県の予算も、国の補助金も、元は「みんな」のお金なんですから。そして他でもない(愛知県民であり日本国民でもある)私のお金でもあるんですから。
無論、私は見たいと思わないし、見せたいとも思いません。
おそらく、実行委員とそのシンパ以外、大抵の人が同じように思うことでしょう。
きちんと内容を知ったうえで、大多数の人が、少なくとも過半数の人々が、このような展示に自分のお金を払いたくない、使いたくないと言うなら、それを公共の事業として、公共の施設において公開するのは、やはり不適切だということです。
もうね、それに尽きます。
えーと、尽きますが、
⚫本当のところ、この展示は「アート」なんですか?
一応、アチラさんの主張も聞きましょう。
と言いたいところですが、実のところ、この「映像作品」、展示期間中実際に足を運んだ方々の報告等にあるだけで、あいちトリエンナーレのサイトを見ても、どういうわけか出てきません。トリエンナーレとしては「表現の不自由展・その後」という名前の一つの作品扱いだからなんでしょう、たぶん。ちょっと困ってます。
ただですね、イヤラシイことに、あいちトリエンナーレの公式サイトとは別に、表現の不自由展・その後実行委員会によるサイトがありまして、そこに行けば「表現の不自由展・その後」に出展している作品個々の解説があります。
それによると、大浦信行さんの作品として「遠近を抱えて(4点組)」というのもがありまして・・・
小倉利丸さんによる、こんな解説が付いてます。
本作は1975年から10年間ニューヨーク滞在中に制作され、1986年、富山県立近代美術館主催「86富山の美術」で展示される。1993年、大浦は制作の意図を次のように語った。
「自分から外へ外へ拡散していく自分自身の肖像だろうと思うイマジネーションと、中へ中へと非常に収斂していく求心的な天皇の空洞の部分、そういう天皇と拡散していくイマジネーションとしての自分、求心的な収斂していく天皇のイマジネーション、つくり上げられたイマジネーションとしての天皇と拡散する自分との二つの攻めぎあいの葛藤の中に、一つの空間ができ上がるのではないかと思ったわけです。それをそのまま提出することで、画面の中に自分らしきものが表われるのではないかと思ったのです。」(大浦信行「自分自身の肖像画として―作家の立場から」、1993年6月6日、富山近代美術館問題を考えるシンポジウム)
本作は展覧会終了後、県議会で「不快」などと批判され、地元新聞も「天皇ちゃかし、不快」などと報道し、右翼団体の抗議もあり、図録とともに非公開となる。93年、美術館は作品売却、図録470冊全て焼却する。その後、6年越しで争った作品公開と図録再版の裁判も敗訴する。2009年沖縄県立博物館・美術館「アトミックサンシャインin沖縄」でも展示を拒否されている。
事件後、大浦は映像作品のなかで「遠近を抱えて」の図像を繰り返し用いる。本展覧会を契機に制作された『遠近を抱えてPartII』においては、作品を燃やすシーンが戦争の記憶にまつわる物語のなかに挿入され、観る者に「遠近を抱える」ことの意味をあらためて問うものになっている。
※表現の不自由展・その後:出展作家 大浦信行
→https://censorship.social/artists/oura-nobuyuki/
は、はあ〜、ですね。ここに「映像作品」が含まれているのかしら。
もうひとつ、嶋田美子さんの作品として「焼かれるべき絵」(エッチング)と「焼かれるべき絵:焼いたもの」(版画を1/3くらい焼いたもの、版画を焼いて灰にするまでの経過を撮ったスナップ、実際の灰、富山県立近代美術館宛の嶋田さんからの手紙、富山県立近代美術館からの返信)というものもあります。
こちらは、アライ=ヒロユキ氏による解説。
この作品は、「’86富山の美術」に出品された大浦信行の《遠近を抱えて》への検閲事件を契機に生まれた。まず版画作品《焼かれるべき絵》は、「無傷」のものと燃やされ半分ほどなくなったものが対になっている。さらに富山県立近代美術館へ抗議の意を示すアクションも付随し、そのトータルで作品を構成する。本展では、焼いた過程の写真、館へ送った灰や文章、封筒、返事なども併せて展示する。
冷戦以降の現代美術においては、多文化主義(民族問題など)やジェンダー論(性差別など)を主題とする政治性を持つアートが台頭した。嶋田美子は日本ではいち早く呼応した作家。そのなかでも、自国の負の歴史をもっとも厳しく批判し、作品とするひとりだ。
本作のモチーフは顔がないためわかりにくいが、その大元帥服から戦前・戦中・戦後と長く帝位に就いていた昭和天皇と推定できる。彼には戦犯追及の声もあったが、結局は逃れた。顔の剥落により、この像は誰でもないという匿名性も帯びる。戦争責任を天皇という特定の人物だけではなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれるのだ。版画だけに「天皇像」は複数に増殖するが、これは日本人一般への責任の広がりの強調としても作用するだろう。
※表現の不自由展・その後:出展作家 嶋田美子
→https://censorship.social/artists/shimada-yoshiko/
これまた、まあその、何だろうなあという感じです。
とにかく、そういうことなので、これらの作品展示の近辺で(どさくさ紛れに?)冒頭紹介した映像も流されていたんだろうと思います。
せっかくなんで、このサイトにある「ごあいさつ」も引用しておきましょう。5人の実行委員連名(責任者ナシ、集団指導体制?)で書かれています。
いま、日本社会で「あること」が進んでいます。自由に表現や言論を発信できなくなっているのです。その領域はさまざまです。新聞や雑誌などの各メディア、美術館や画廊、各種公共施設、日常生活、路上の活動など。その内容もさまざまです。報道や娯楽番組、天皇と戦争、植民地支配、日本軍「慰安婦」、靖国神社、国家批判、憲法9条、原発、性表現、残酷表現など。その不自由のあり方もさまざまです。検閲、規制、忖度、弾圧、クレーム、NGなど。
私たち実行委員会はこの事態を憂い、美術とその関連領域に絞って、2015年に東京のギャラリー古藤で「自由を脅かされた表現」を集めた「表現の不自由展」を開きました。
あれから5年が経ちましたが、この「不自由」はさらに強く、広範囲に侵蝕しています。ここで私たちは改めて「自由を脅かされた表現」を集める「表現の不自由展・その後」を開きます。今回はほぼ美術表現に絞っての選定です。
自由をめぐっては立場の異なるさまざまな意見があります。すべての言論と表現に自由を。あるいは、あるものの権限を侵害する自由は認めるべきではない。
本展では、この問題に特定の立場からの回答は用意しません。自由をめぐる議論の契機を作りたいのです。
そして憂慮すべきなのは、自由を脅かされ、奪われた表現の尊厳です。本展では、まずその美術作品をよりよく見ていただくことに留意しました。そこにこそ、自由を論じる前提があることと信じます。そして、展示作品の背後にはより多くの同類がいることに思いを馳せていただけないでしょうか。
本展では年表パネル、資料コーナーも充実させました。作品をご覧になった後は、資料をじっくりと見ていただき、いまの日本の「不自由」について考えていただければ幸いです。
2019年8月
表現の不自由展 実行委員会
アライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三
※表現の不自由展・その後:ごあいさつ
→https://censorship.social/statement/
こりゃまた随分と能弁ではありますが、ゴメン、年表パネルやら資料やらをじっくり見なきゃいけない「芸術表現」なんて、そりゃ「アート」としても、たかが知れてるんじゃないの? と思ってしまいます。
悔しかったら、これらの「アート」に、自分のお金を払う人がどれくらいいるものなのか、自分たちで会場手配して展覧会でも何でも開いたら良いでしょう(何とか言うサイトでは支援金も相当に集まっているようですしね)。
そういうことなら(批判はするでしょうけど)誰も止めませんよ。日本は自由の国ですから!
以下は、長〜いおまけです。
既にあちらこちらで指摘されていることではありますが、
⚫昔「政治・経済」の授業で習った憲法の話。
『政・経 資料集』。私の高校時代、笑っちゃいますが、1982年版です。
日本国憲法について色々書き込んでます。真面目な生徒でした。自慢じゃありませんが、政治経済に限れば、学年トップ10に入るような優秀な生徒でもありました。えへへ。
拡大すると、
第12条に「国民」、でもって第13条には「為政者」と注意書きしてます。先生は、以下のような説明をされました。
自由とか権利とかは、国民が(!)努力して保持するもの、濫用してはならず、公共の福祉のために利用する責任を伴う(!)もの。
自由を含む国民の権利について、為政者は、公共の福祉に反しない限りにおいて(!)最大限尊重しなければならない。
それを踏まえたうえで、こちら、
第21条があります。
と、このように習ったと記憶しております。
なので、表現の自由に関して憲法21条だけを言うのは、これがテストであれば、48/100点くらいでしょうか。
ついでに言うと、アチラの方々は、このテの「不自由」について、やたら「検閲」だと言い募りますが、そういうキツイ言葉を、それこそ濫用するのも感心しませんね。
そんなん言い出したら、新聞だってTVだって、原稿依頼しておきながら社論にそわないからと不掲載にする、あるいは、取材しておきながら自らの狙うストーリー上使えないからとお蔵入りにするわけで、それらも「検閲」ですか? 違うでしょ?
たまに、そう言ってるのも聞きますし、実際、その取捨選択が不穏当な事例もあったりして、褒められたことじゃないにしても、それでもやはり、検閲ではありません。
およそ全ての媒体(メディア)が、場の提供者として、発信者のナマの表現をそのまま認めるはずもないですし、そのこと自体は、まあ、当たり前です。
ならば、公共の施設・事業であっても(と言うより、公共の施設・事業だからこそ)表現の場を提供する者として、あるいは主催する者として、そこで発表される内容の適・不適を判断し、場合によっては不可とするのも当然じゃないですか。
そうしなければ「公共の福祉」を維持することは叶わず、それはつまり、より多くの人々の「自由及び権利」を奪うことに繋がりかねません。
本来、表現する側(国民)が自ら自由の「濫用」を戒め、公共の福祉のために自由を「利用する責任」を自覚しているなら、今回のような問題は起きません。
が、自分達に都合の良いところだけ取り上げ拡大解釈する方々に、それを言っても詮無いことでしょう。
法律や憲法の条文以前に「守るべき人の倫(みち)がある」と知らず解らず、どこまでも自由のみを言い募るごく少数の人達こそが、逆に、他の大多数の人々にとって息苦しい世の中を、不自由な世界を作り出しているんです。
最後に、おまけのおまけ(と言うか宣伝)。
⚫〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉なんて、ダサ句。
「表現の不自由展・その後」の作品群は、ほとんどが、それ自体「アート」としてどうなの? くらいのものなんですが、「9条俳句」という、作者非公開の「作品」もあります。
俳句は、五・七・五の十七音で表現される、世界で最も短い詩だ。
市民が作ったこの句は、東京都の北、埼玉県さいたま市大宮区の三橋公民館の俳句サークルで第1位に選ばれ、2014年7月の月報に掲載されるはずだった。だが公民館側はそれを拒否。戦争放棄を掲げた「日本国憲法9条」を扱うことは政治的であり、議論が分かれ、一方の側に立てないというのが理由だった。作者は提訴。自治体の政権への忖度や過剰規制を象徴するとして、多くの市民による応援団が結成された。2018年12月、作者の勝訴が確定した。(永田浩三)
※表現の不自由展・その後:出展作家 作者非公開
→https://censorship.social/artists/9jou-haiku/
まあ確かにね、判決として「作者勝訴」ではあったんですが、そもそもこの句が「秀句」に選ばれたこと自体がね・・・
ということで、この俳句に関して、以前「gooブログ」で書いたものがあります。よろしければ、どうぞ。