大晦日の朝、ちょっと小雨でした。
朝7時、いまならコンビニがすいているし、なんとなく、来年度授業のコピーをしに、コンビニへ。
コピー機は順調に動き、本のコピーを予定の12ページあまりやって……あと一ページだ、
というときに、「紙が不足・従業員にお知らせください」という文字が出ました。
あー1枚。
さっき斜めになってしまった紙を「再読みこみ」にしなければよかったのですが。
🌟すぐレジに行き、紙が切れました、と告げると、担当はアジア系の外国人のバイトの男性でした。
はい
と紙を出して、コピー機にやってきてくれました。が、引き出しをひっぱっても開かない。
「すみません、やったことがなくて」
やばい。
彼の左にしゃがんで、なぜか、片方の引き出しの後ろのプラスチックのバネを横から押すと、開きました。
機械音痴の自分を、瞬間誉めたくなりました。
お兄さんもほっとしたようで、紙を取りにいきました。
が、その紙をどっち向きに入れるか、また引き出しのバネを押していくつかの引き出しをチェック。
「こっち向きですよね」引き出しの形状から見て、私が進言。
お兄さんはよかった、という顔でそこに入れて、レジに戻り、私は最後の一枚にかかりました。
出てきた!
しかし見たら、それは一枚10円の普通紙ではなく、loppi用のうす青い模様のついた紙。
まあ、これでもよいかと一瞬思いましたが、次の人が困るだろう……
🌟私はもう一度レジに行き、紙が違うんですけど、と訴えました。
お兄さんは、別の紙を出してきて、それは白かったので、大丈夫かと思いました。しかし、プリントしてみたら、それは光沢のある40円の紙でした。
三度目にレジへ行き、これ、紙が違います、と言い、「でも、私はこれで一応終わりなので、これでいいです。次の人のために替えておいてください」
と言って、がらがらのコンビニを去りました。(投入したお金は、違っていた紙の分で、プラマイ、チャラです)
🌟けっこうスリリングでした。バイトのお兄さんもスリルだったと思います。
でも、外国人のお兄さんを、なんとかリードできた、ということで、非常に稀な「機械優越感」を味わいました。
紙の替え方がなんで、わかったのかわかりませんが、これは「ミラクル」か「ソース」か「龍さん」の導きか。
ふしぎな一瞬が体の中をかすめ過ぎた感じ。
🌟大晦日なので、そのすぐあと、今年も予約しておいたお蕎麦屋さんのおせちを受け取りにいきました。
渾身の手打ちそばも受け取り、お昼に食べ
それから、卒論を3本ほど読みました。今年のネタは「2.5次元舞台」と「ゲームの主人公と小説の主人公の比較」「バービー人形の多様化(ダウン症のモデルまで発売された)」「バーチャルアイドルが体現する、フィクションの救い」「映画化に際して起きた賛否両論」など、学生ははるかに未来へ意識が進んでいます。
頭が完全に、(ブレインストーミングどころではなく)スクランブルされました。
🌟ことに面白かったのは、ゲームを中心に論じた学生さんの「初音ミク」の存在感への言及でした。ただの映像で、それ自体に自律的迫力があるわけではない————にもかかわらず、会場では、初音ミクの歌のマイクの不具合に対し、あたかも生きた存在のように「ミク」への大声援、応援が起きた。初音ミクは、
テクノロジーでリアルに作られたアイドルなのではなく、舞台、映像にその場の「観客」が加わって生まれた存在なのです。
観客がいなかったら、彼女に生命は吹き込まれなかった。
🌟私は先日歌舞伎座の初音ミクを観て、映像は可愛いけれど、そんなに圧倒されませんでしたので、この学生の指摘に深く感心しました。バーチャル・アイドルは、生きた観客、ファンの生命力で支えられている、まさに透明な人工生命。
🌟フィクションに強く感情を動かされたり、愛したりできる人間の生命力はすごい。私たちは「物語」で動く存在。
小説で読む脳内主人公のみならず、動くアニメ(やゲーム)映像、2.5次元舞台を演じる架空の主人公も同じような生命起動力を持っている。
「推し」についての論文もありましたので、ますますスピリチュアルな世界の「存在」感とは何か、へ、新年から入り込んでしまいそうです。